事実、空母機動部隊による支援(第二次ソロモン海戦)にもかかわらず敵航空部隊の攻撃はし烈を極め、増援部隊を乗せた船団が敵機の空襲を受け、輸送船と駆逐艦が撃沈されている。そのため、日本海軍は輸送船によるガダルカナル島への物資輸送が不可能になったと判断し、高速の戦闘艦艇に補給物資を搭載して敵の制空権下を強行突破することとした。
戦闘艦艇による海上輸送はネズミ輸送と称され(米軍は「東京急行」と呼んだ)、多くの将兵と補給物資を揚陸している。だが、南太平洋海戦以降はガダルカナル島近海の警戒がいっそう厳しさを増したため、水上艦艇による輸送と並行して潜水艦も輸送作戦に投入することとなった。もちろん、潜水艦の搭載能力は非常に限られており、食料や軽武装の兵員を輸送するのが精一杯だった。
潜水艦輸送は「丸通」と呼ばれていたが、潜水艦の小さなハッチから物資を運びだしている間はほぼ無防備に近い状態で、付近を警戒していた駆逐艦はもちろん、魚雷艇に発見されただけでも艦の生存が危ぶまれるという有り様だった。そのため、潜水艦の輸送能力を増大させるという意味も含め、日本海軍は曳航式の物資輸送カプセルを投入した。輸送カプセルは運貨筒と呼ばれ、大中小の三種類が製造された。
運貨筒の開発経緯や能力については不明な点も多いが、もっとも大きな大型運貨筒の搭載能力は十数トンで、停止している間は海面上に浮かんでいるが、曳航されると本体のヒレによって海面下に沈む構造だった。運貨筒は1942年秋ごろから開発されたとみて問題はないだろうが、時期よっては日本海軍が実際に輸送作戦を開始する以前から潜水艦の物資輸送に関する様々な問題を認識していたことになる。とはいえ、ガダルカナル島から撤退した後に大型運貨筒の実験を行っていたという証言もあり、実戦での運用情況も含めて未解明部分の多い兵器といえる。
また、運貨筒は潜水艦の水中運動性能を著しく損なううえ、洋上で切り離された後には上陸用舟艇等で海岸まで運ぶ必要があったため、運用性という点では大きな問題を抱えていた。そこで、甲標的(小型の特殊潜水艦)の船体構造を利用して、短距離ながら自力航行が可能な特型運貨筒が開発された。特型運貨筒の構造は原型の甲標的とほぼ同じだが、動力が魚雷用エンジンに換装され、概ね25トンの搭載能力を有していた。外形は筒状の船体に煙突状の操舵室がくっついたようなもので、潜水艦によって運搬されるため水密耐圧構造も備えていたが、水中航行能力は無かった。開発は1942年末に終了し、翌年から量産が始まったとされているが、同時期には日本軍がガダルカナル島から撤退しているため、主にラバウルやニューギニア方面での輸送作戦に使用したのだろう。
そのほか、火砲を始めとする重火器を揚陸するための機材が求められたため、特型運貨筒に続いて、魚雷を動力として使用する運砲筒が開発された。運砲筒は箱型の艀に魚雷が取りつけられたような外見で、運貨筒や特型運貨筒のように搭載物を本体内部へ収納するのではなく、上陸用舟艇のように本体の上へ固定して運搬する。搭載能力は重量にして約15トンとされ、陸軍の15センチ榴弾砲なら砲弾を含め3門まで、野砲なら4門まで搭載可能だったとされている。ただし、より大型の重砲を搭載すると、予備砲弾はあまり搭載できなかっただろう。
開発着手から半年後の1943年夏にはラバウルに50隻の運砲筒が運び込まれ、ニューギニアやソロモン方面における輸送作戦に投入された。運砲筒による火砲の輸送作戦は極めて順調に行われ、作戦中には喪失しなかったというのだから、大きな成功を収めたとみてまちがいないだろう。また、翌44年にはグアム島への輸送作戦も実施されているが、この時は海中で火砲が脱落してしまったり、輸送中の潜水艦が撃沈されたため、目的地には一部の火砲が到達したのみである。
敵に制海権や制空権を奪われ、孤立した沿岸拠点へ物資を送り届けるという意味において、運貨筒や運砲筒は必要にして十分な能力を備えており、またその運用実績も悪くはないといえるだろう。運貨筒によってもたらされた食料は多くの将兵を飢餓から救ったし、また運砲筒によってもたらされた火砲によって、少なからぬ数の将兵が火力支援の恩恵を受けたであろうことはまちがいない。だが、根本的には敵に制海権や制空権を奪われ、孤立した沿岸拠点において戦い続けるという情況設定自体に問題があるといえないだろうか。
(隔週日曜日に掲載)