−−16年ぶりに来日した目的を教えて下さい。
マスクド・スーパースター(以下=S) いま私はジョージア州のインナーハーバースクールという青少年の更正施設で先生をしているんですが、その少年保護施設の運営資金と寄付金を募るため、日本で試合(4日に新木場1stリングで行われた仮面フェスタ)をしたり、新日本プロレスの大会を通じて日本のみなさんに寄付を呼びかけました。来日する前はさすがにもう日本では忘れられているかと思っていましたが、みなさん温かく迎えてくれて感謝しています。
−−レスラーから更正施設の職員になったきっかけは。
S WWF(現WWE)と契約が終わった後、ある私の知り合いがいまの施設の先生を探していて、たまたま私がジョージア州の教職免許を持っていたので、そのオファーをもらって2000年からいままで9年間この仕事をやっています。なかなか更正施設の先生というのは成り手がいないんですよ。でも、更正施設の方がよっぽど公立のハイスクールなんかより安全。武器やガンを持ってる生徒がいないから。
−−元トップレスラーが先生をやることに支障はないか。
S あんまり関係ない。先生のときはもちろんマスクも被ってないからね。主に私は泥棒や恐喝、性犯罪や覚せい剤など、いろんな罪で収容された8歳から18歳の少年を看ていて、最初は彼らみんなを更正させたいと思っていたけど、最近になってそれが難しいことが分かった。18歳になると70%は少年院からそのまま刑務所に入ってしまう。まあそういう嘆かわしい現実もあるんだけど、いま私は少しでも彼らの社会復帰に貢献できればと思ってやっているよ。
−−いまは「レスラー兼教師」としての“顔”だが、現役時代もマスクド・スーパースター以外にもいろんな“顔”を持っていた。
S 確かにいろんなものをやったね。ボロ・モンゴルから日本ではマスクド・スーパースター、アックスにビリー・クラッシャー…。でもその中でも私はこのマスクド・スーパースターが一番好き。何より自分の性格にも合ってる気がするんだ。こうしてスーパースターでいるときが、気分的にも一番素に近いというかね。今回は昔の友人にも会えて本当に良かったよ。
−−アントニオ猪木とも再会を果たした。
S 最高の再会だった。彼からは当時いろんな影響を受けたからね。あのときのミスター猪木は卓越したレスリングテクニックとスピードを持ち合わせ、そして何より不屈の闘魂で闘っていたカリスマ。いろんなところをケガしながらも、一切それを表に出さない彼のあの不屈の闘志には感銘を受けた。だからこそ私もそういう精神でリングに上がっていたし、猪木との試合では絶対に彼からギブアップしなかった。
−−久しぶりに猪木と再会してどうだった?
S 本当に少しの時間だったんだけど、ファーストクラスの扱いで迎え入れてくれて本当に良い時間になった。61歳なんて全然若いって言われたんだけど、彼も元気そうで昔と全然変わってなかったよ。いまミスター猪木はIGFというイベントをやっているそうなので、是非とも私のいるジョージア州にも来てくれたらうれしい。私の住んでいるところでもミスター猪木は大スターだから。今後そういう機会があったら喜んで協力したいと思う。
−−今後について。
S 6、7月が施設が夏休みになるので、また来年のこの時期に日本に来れたら。日本でまだ再会したい人もたくさんいますし。あと今回会えなかった藤波とも会いたい。彼とは現役時代に何度もタイトル戦をやったから。彼もいまドラディションっていうイベントをやっているそうなので、何か再会するチャンスがあればと思う。
−−最後に日本のファン、内外読者にメッセージをお願いします。
S ナイガイタイムスも60歳で健在のようですが、私も61歳でまだまだ健在です。このさき日本のファンのみなさまとどこかでまたどこか再会できることを楽しみにしています。
○マスクド・スーパースターは自らがカウンセラーを務める青少年更正施設への寄付金を呼びかけている。寄付はインターネットのウェブサイト上からも可能。詳細は公式HP http://www.maskedsuperstar.com/index.htmからアクセスとのこと。
<プロフィール> マスクド・スーパースター。1947年12月27日生まれ。米ペンシルバニア州出身。身長192センチ、132キロ。タイトル歴WWFタッグ、NWAジョージアヘビー、NWAナショナルヘビー。得意技はジャンピングネックブリーカードロップ。
○高校の歴史教師からレスラー転向を果たし、1973年にプロレスデビューする。デビュー当時はボロ・モンゴルとしてIWAやNWFで活躍。翌74年4月に新日本プロレスに初参戦し、77年3月からマスクド・スーパースターとして同マットに登場した。各タイトル戦やMSGタッグリーグなどに出場。
85年にはアンドレ・ザ・ジャイアント扮するジャイアント・マシーンとともにスーパー・マシーンとしてマシン軍団の一員となり、WWFに逆輸入の形で進出する。
90年には東京ドームで開催された日米レスリングサミットでジャイアント馬場&アンドレ組と対戦。その後は新日プロで闘魂三銃士の蝶野正洋や武藤敬司ともシングルマッチを行い、90年代後半からは米インディ団体の試合などにスポット参戦を続けている。