古葉氏は栄光と挫折の連続でもあった。1975年5月12日、シーズン途中に退団したジョー・ルーツ監督の後を受け、広島監督に就任。球団創設以来、初めてリーグ優勝を達成した古葉氏は、その後も79、80、84年と3度も日本一監督になっている。バットケースの後ろに陣取り、顔はにこやかながら、外部から見えないようにボーンヘッドした選手を蹴り上げたり、鉄拳制裁したりの熱血指導。ミスター赤ヘル・山本浩二、衣笠祥雄らスター選手を育て上げている。
だが、華やかな監督人生は赤ヘル軍団の広島時代で終わりだった。「ぬるま湯のチームを大改造するには名将・古葉監督しかいない」という大きな期待を背にして87年から3年間、横浜大洋ホエールズの監督を務めたが、5位、4位、最下位の成績で解任されている。
横浜大洋退団の後に、もう一度復権のチャンスがあったものの、球界の寝業師といわれた根本陸夫氏(故人=元ダイエー球団社長)がまさかの王監督の招請に成功して、古葉監督は消滅してしまったのだ。
99年に広島監督時代の手腕を評価され、殿堂入りして久々に晴れ舞台に立ったが、その後も波乱続き。政界入りを狙ったものの、失敗の繰り返しだった。03年に広島市長選、04年には自民党から比例代表で参議院議員選挙に出馬したが、いずれも落選している。
現在、東京国際大学監督というポストに就いているわけだが、ここでも一騒動あった。当初07年に就任予定が1年間延期になったからだ。プロ野球マスターズリーグの札幌アンビシャス監督を務めていたことがプロ活動と見なされ、アマチュア登録できず、三男の古葉隆明氏が監督、古葉氏はベンチ入りしないアドバイザーで1年間耐えたのだ。『耐えて勝つ』というのが、広島監督時代からの古葉氏の座右の銘だが、73歳の今、改めて噛みしめているだろう。
ミスター・ジャイアンツ・長嶋茂雄氏とは58年のプロ入り同期生。63年に激しい首位打者争いを演じ、最後にわずか2厘差で涙をのんだ古葉氏だが、75年に新監督同士の対決で雪辱している。
「クリーンベースボール」を標ぼうして華々しくデビューした巨人・長嶋監督に対し、ルーツ監督の電撃退団で突如、コーチから監督に昇格した古葉氏。対照的な監督就任劇だったが、結果は古葉氏の完勝だった。
巨人球団史上初の最下位に沈んだ長嶋監督。広島球団創設以来初のリーグ優勝の古葉監督。しかも、優勝決定の瞬間が最高の舞台だった。巨人の本拠地の後楽園球場で古葉監督の胴上げが行われたのだ。
「この屈辱を来年晴らすために広島の胴上げを目に焼き付けろ」。長嶋監督は巨人ナインにこう厳命して、一塁側ベンチ前にコーチ、選手全員を整列させ、古葉監督の胴上げを見守らせた。古葉監督にとって偉大なプロ同期生に初めて勝った歓喜の一瞬は生涯忘れられないだろう。