1907(明治40)年、馬政局は、それまで豪州産馬と肩を並べて根岸競馬を盛り上げてきた中国産馬の輸入を禁止してしまう。中国産馬は日本の国内産馬の改良には何も役に立たないというのが理由だ。
日本レーシングクラブはこれには反対で、なじみ深い中国産馬の存続を請願し、騎手たちもストライキで抗議したが、取り上げられなかった。1910(明治43)年の春季競馬を最後として、中国産馬は根岸競馬場からも姿を消してしまう。また、競走馬と同じように騎手の方も時代とともにかわってゆく。
開国直後の幕末、英駐屯軍が主催した山手の錬兵場や射撃場で行われた競馬には、居留外国人らに駐屯の将校も加わり、幕府の役人である武士らのゲスト出演もあった。しかし、明治時代を迎えると、年を追うにしたがって、さまざまな職業の一般騎手のほかに、今日のようなプロの騎手が割り込んでくる。
そうなると、いくら馬に力量があっても、勝負は実力通りには決まらなくなってくる。このような問題を受け、1900(明治33)年、秋の競馬番組には、公正確保のためにクラブ会員か観客、つまりプロでない紳士騎手だけによるシルク賞杯(第5レース・支那産馬競走)が組まれたりもした。だが、それも競馬の繁栄とともに馬同様、人も淘汰されていく。一般の紳士騎手とプロ騎手が混在した時代は、やがてプロ騎手だけの現代競馬へと移っていった。
さて、次回のテーマは「賭け」。今でいう「馬券の発売」や「勝馬の投票はいつから、どういう風に始まったか」に触れていきたい。
※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬