時は1960年代前半。20代の倉本氏は当時、本名でラジオ局であるニッポン放送のディレクター業をこなし、副業として「倉本聰」名義でテレビドラマの脚本を書くといった二重生活を送っていた。ただでさえ多忙なラジオディレクター業に加え、脚本を何本も掛け持ちしていたために当時の倉本氏の睡眠時間はわずか2時間ほどであったという。
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当時、倉本氏が担当していた番組は渥美清と水谷八重子の対話方式のラジオドラマで、朝6時という早朝の時間ながら根強い人気を誇っていた。
だが、ある日の夜、番組デスクからディレクター・倉本氏に怒号が飛んだ。
「明日のテープが届いてないぞ!一体どうなってるんだ!」
あと数時間後に放送されるはずの編集済みの放送テープが納品されていないのだという。倉本氏は机の上やロッカーなど、ありとあらゆる場所を探したが放送テープはどこにもなかった。
青ざめた倉本氏は、渥美と水谷の所属事務所に頭を下げ、撮り直しをしてもらおうと連絡した。渥美はなんとか都合がついたが、水谷はこの日海外旅行中で収録ができないという。
ここで倉本氏の天才的な「脚本力」が開花した。
倉本氏は過去の放送済みテープから水谷の笑い声や驚いた声、「ふーん」「それで?」といった相槌を拾っていき、水谷のリアクションに合わせて、渥美の新しい台詞を書いていく。そして深夜3時にニッポン放送に渥美が到着するとすぐにアフレコが開始され、5時までに録音した渥美と水谷の会話をミキシング。なんとかオンエア30分前に完成させたという。
なお、倉本氏の脚本があまりに完璧だったことから、渥美と水谷が同じスタジオにいなかったことに誰も気が付かなかったという。
ラジオドラマといえど、わずか4時間程度で脚本から録音、編集までこなした倉本氏の「早撮り」はおそらくギネス級であったに違いない。
なお、この一件に懲りた倉本氏はラジオディレクターを辞め、脚本一本で勝負していくことになったという。