1968(昭和43)年10~11月にかけて、東京・京都・函館・名古屋といった都市で拳銃による射殺事件が相次ぎ発生した。
>>愛知・千葉・山梨で相次いで若い女性が殺害『混血少年連続殺人事件』【衝撃の未成年犯罪事件簿】<<
被害者は警備員の男性2名、タクシー運転手の男性2名で、衝動的に殺した痕跡があり、2年前に発生した混血少年連続殺人事件の被害者(若い女性3名)とは対照的であった。
それぞれ、使用された銃の形式や弾丸が同じだったため、本事件は広域重要指定108号事件となった。
そして年をまたいだ1969(昭和44)年4月7日、東京都内の専門学校に泥棒目的で侵入した当時19歳の少年が逮捕された。東京・京都・函館・名古屋の殺人はこの少年によるものであることが分かり、5月10日に東京地方検察庁から東京家庭裁判所へ送致されることになった。
この少年・永山則夫は北海道の網走市出身だった。幼少の頃、家庭崩壊が始まり、極貧の生活を続け不良少年となっていた。
やがて集団就職で上京。だが、網走時代の不良時代の発覚を恐れて職場を次々と変え、社会に対する恨みつらみを募らせていたことが犯行のきっかけだったという。
犯罪史の中で永山の名前が伝説化したのは獄中での文筆活動が大きな話題になったためである。1971(昭和46)年に手記『無知の涙』が発表されるとその内容が評価されベストセラーになり、その後も『木橋』、『ソオ連の旅芸人』など小説や手記を次々と発表。
特に『木橋』は第19回新日本文学賞を受賞するなど高く評価されている。
法廷では永山の量刑判断がポイントに。後に「永山基準」と呼ばれ、少年犯罪を罰する際のひとつの基準にもなった。
永山は1997年8月1日に東京拘置所で死刑が執行された。なお同年6月には兵庫県神戸市で当時14歳の少年が児童を殺害した神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)が発生した。日本の少年犯罪はこれをきっかけに、現代の社会問題として再び議論されていくことになる。
文:穂積昭雪(山口敏太郎事務所)