織田信長は本能寺で自決したとされているが、実は死体が発見されていない。ところが、信長の首が静岡県富士宮市の西山本門寺に安置されているという説が存在しているのである。
信長の首は、初代本因坊算砂「日海」の指示で、第18世住職日順上人の父である原宗安(原志摩守)によって密かに静岡県に運ばれたという。この時、首は誰にも見つからないように、仏像の中に入れて運ばれたとも言われている。
昭和54年1月の読売新聞には、宗門研究家である山口稔氏の研究結果が記事として掲載されている。それによると、まず前述の日順上人の内過去帳に、旧暦6月2日の日付で『惣見院信長』の記述が存在しているという。また、地元では、古くから信長公の首塚が西山本門寺の本堂奥にある大柊のもとに安置されているということが口伝として存在していた。
そして、本能寺の変で信長公と一緒に討ち死にした原家に伝わる文献「原家記」によれば、日順上人の父である原志摩守が混乱の中から父と兄、そして信長の首を持ち出すことに成功、山道伝いに駿河まで逃げ延びて、本門寺の本堂裏手に三人の首を埋めたと記されているという。
本因坊算砂は、京都寂光寺本因坊の住僧であった。本能寺の変が起きる前夜、信長は算砂と鹿塩利賢に囲碁の対局をさせていた事が知られている。本因坊算砂はこの流れで本能寺に泊まる事になったため、事件に巻き込まれる事となってしまったのだろう。そして、せめて信長公の首だけでも供養してほしいと、旧知の仲であった原志摩守に託したのではないだろうか。そう、作家の安部龍太郎氏は著書「謎に迫る・富士山麓に埋められた信長の首」の中で推測している。
本因坊算砂と原志摩守にとって、この西山本門寺と関係が深いものであったことは、算砂が本門寺の境内に本因坊という坊舎を作って住んでいた事実や、原志摩守の子、日順が寺の第18代上人となっている事からも解るという。前述の日順上人が記した過去帳には、『天正十年六月、惣見院信長、為明智被誅』と記されている。日順上人は慶長七(1602)年の生まれであり、天正十(1582)年に起きた本能寺の変を知る事は出来ないが、父親や先代の本因坊算砂から事件の内容を聞いて、書き記していたのではないだろうか。
(山口敏太郎)