道三と言えば、乱世の梟雄(きょうゆう)として知られた人物であり、岐阜の有名な戦国武将の一人でもあるのだが、地元岐阜には奇妙な伝説が存在しているらしい。
オカルト研究家である筆者が岐阜県で行った地元の妖怪ツアーに参加していた、町歩きの専門家の方から聞いた話によれば、岐阜城には「斎藤道三の呪い」があるのだとか。道三以降に岐阜城の城主になった人物は皆短命であるそうなので、以下に書き出してみよう。
道三の嫡男である義龍は道三を破り、信長を何度も撃退したが、35歳で急死。同じく嫡男の龍興がその後城主となったが、竹中重治らに城を奪われ、返還されるも信長によって再び落城。龍興自身は刀禰坂の戦いで26歳で戦死している。
信長は道三の娘を妻に迎えており、その後城主となった。後に京都本能寺で自害。享年49。この信長の嫡男である信忠は本能寺の変の際に、京都妙覚寺から二条新御所に移動し戦死。享年26。信長の三男である信孝は賤ヶ岳の戦いの後、尾張知多郡内海で自害。彼も享年26。
後に、織田家重臣の池田恒興の嫡男である元助が城主となったが、彼も小牧・長久手の戦いにおいて父子共に討死。享年26。恒興の次男である照政(後の輝政)が岐阜城主になったが、彼は後に三河吉田城主を経て姫路藩初代藩主となる。彼は後に姫路宰相百万石と評され、姫路城を修築しこの地で死去している。享年50。
照政の後に岐阜城主となったのは豊臣秀吉の姉(日秀尼)の子である秀勝だった。彼は総大将として朝鮮出兵で出陣したが、巨済島にて23歳で病死している。そして信長の息子・信忠の嫡男である秀信が城主となるも、高野山を追放された年に死亡。享年26であった。
こうやって書き出してみると、信長と照政以外は、皆20代から30代半ばで早く亡くなっていることになる。
道三は「美濃の蝮」と呼ばれ、主君を追い落として美濃を治めていた、下克上の典型として語り継がれる人物でもある。彼は後に美濃国を、娘婿であり素質を見出していた尾張の信長に譲る事を決めていたのだが、これも因果か自分の息子である義龍に謀反を起こされ、戦に敗れ死ぬ事となる。美濃を信長に譲る事は「国譲状」を生前に書き残していたため、予想外の敗死は彼にとっては非常に無念の残るものだったと思われる。
この時の無念の思いが岐阜城に宿り、岐阜城に入ってこの地を治めていた者に呪いとなって降りかかったのだろうか。だとすると、初めから国を譲られる事が約束されていた信長が50近くまで生きる事ができた事にも説明が付く(残念ながら、彼も天下布武への道半ばで光秀に討たれてしまったが)。
果たして、道三の呪いは存在するのだろうか?
(山口敏太郎)