その日、下山総裁は日本橋・三越デパート前に車を止めさせ、運転手に「5分ほどで戻る」と言い残し、こつ然と姿を消した。そして、その日の夜、轢死体として発見された。
運輸省事務次官だった下山氏は国鉄総裁の就任にあたり、大きな任務を課せられていた。ドッジラインが提案する経済政策に従い国鉄の大幅な人員整理の遂行だった。労組などの激しい抵抗に遭い作業は難航を極めた。当時を知る人は「相当に憔悴した様子だった」と下山総裁の様子を語っている。
一説には睡眠薬の服用がなければ夜も寝付けないほど、追い込まれていたという。
事件後、下山総裁の死は、ノイローゼ状態に陥った結果の自殺として処理される。しかし、ここから下山事件が戦後最大のミステリーと呼ばれる、謎の迷宮に突入して行くことになる。
相当なストレスが溜まっていたとはいえ、これから死のうとしている人間が運転手に「5分で戻る」と告げ、その場を去るだろうか?また、そのような人間が三越前から10km以上も離れた事件現場を死に場所に選ぶだろうか?
さらに当時の社会背景が謎に拍車をかける。当時、マッカーサー率いるGHQはソ連ならびに共産党の躍進を脅威と捕らえ反米勢力と決定づけていた。参謀本部内の特務機関を使い、様々な工作を仕掛け、共産分子の検挙に力を入れていたのである。
下山総裁が消えた三越前の目と鼻の先には、その特殊工作機関の中でも「赤狩り」において最も信頼を置かれていたキャノン機関が本部を置くライカビルがあった。ジャック.Y.キャノン率いるキャノン機関は警視庁から捜査権、武器の携帯も許されていた特殊組織。ライカビルには戦中、戦後の日本の闇に深く関わったとされる亜細亜産業も事務所を構えていた。
赤狩りのきっかけとして下山総裁は殺された。誰もがそう思い、そしてこれまでに多くの人間がそのミステリーに挑戦したが事件の解明は現在に至っても、いまだ謎のままである。
その後、1950年代に行き過ぎたレッドパージはアメリカ国内でも問題となり、GHQのマッカーサー元帥もその職を追われた。
米ソ冷戦の黎明期に起きた下山事件の謎はおそらく永遠に解決される事はないだろう。
(写真=下山総裁の轢死体が発見された直後の現場。捜査員はやる気満々だったが…)