だが、出現当時の空挺部隊は兵士と軽火器をパラシュートで降下させるのが精一杯で、どうしても支援火力が不足していた。もちろん、戦車をはじめとする機甲戦力は全く装備できないため、降下後は徒歩で移動するしか方法がなく、また空挺堡を確保するという点でも不安があった。そのため、各国の陸軍では空挺部隊とともに降下可能か、あるいはよりアグレッシブに「飛行可能な戦車」を実現しようと、空挺と飛行の両方向から開発を進めることとなった。
アメリカの発明家クリスティーは1920年代後半に画期的なサスペンションを備えた高速戦車を開発し、アメリカ陸軍に対して熱心に売り込んでいた。クリスティーは様々な戦車のプランを持っていたが、その中には自慢の高速力を活かした飛行戦車も含まれていたのである。彼の飛行戦車案は砲塔を持たない固定戦闘室式の戦車に、主尾翼とプロペラを取りつけたようなスタイルで、自力での離着陸および飛行が可能というものだった。
だが、当時のアメリカ陸軍は新兵器の導入に極めて消極的で、クリスティーの戦車もごくわずかな数が生産、採用されただけだった。もちろん、夢想的な飛行戦車を試作するどころではなく、机上の検討案のまま葬り去られることとなる。
とはいえ、飛行戦車という概念自体はなかなか魅力に富んでいたため、いくつかの国では実際に開発をすすめている。ただし、いずれも自力飛行可能な文字通りの飛行戦車ではなく、車体に取り外し可能な主尾翼を取りつけたグライダーとなっており、飛行することよりも安全に降下させることを目的としていた。もちろん、空挺部隊と同時に降下し、機甲戦力を提供するための車両である。
まず1932年頃にはクリスティーからサスペンションなどの設計を購入したソビエトが開発に着手、軽戦車のT-60を改造した試作戦車はA-40あるいはKT(飛行戦車)という名称を持ち、滑空試験も実施した。だが、極限までの軽量化を図ってもなお重量過大で、試験に際しては武器弾薬などを車体から降ろして、燃料も必要最小限に留めた。
しかし、試作機の重量や空気抵抗は非常に大きく、ソ連が有する最大最強の爆撃機をもってしてもなお、離陸には危険が伴ったという。加えて、戦車の火力や装甲防御力が発展したことにより、軽戦車程度の能力では戦力的価値がほとんどなくなってしまったため、開発そのものに意味がなくなってしまった。最終的に、ソビエト軍はパラシュート降下するか、あるいはグライダーや輸送機で空輸する戦車を開発することになる。
また、イタリア軍はアニメ映画「ガールズアンドパンツァー」にも登場した豆戦車CV33をベースにしたグライダーを計画していた他、日本軍も1943年から着脱可能な翼を持つグライダー戦車の開発に着手し、特三号戦車(クロ車あるいはソラ車)と名付けて作業をすすめていた。特三号戦車は九八式軽戦車をベースに設計が進められ、乗員を減らしたり小型のガソリンエンジンへ変更するなどの軽量化を図った。だが、特三号戦車は滑空中の姿勢制御が極めて困難と推測されて開発は断念され、イタリアの計画も兵器としての能力不足から開発が中止されるなど、いずれも実戦には投入されなかった。
その他、ヘリコプターの開発に没頭していたオーストリアのラウル・ハフナーは、移住したイギリスで極めて前衛的な航空機を試作した。ハフナーが試作したのは、ジープに回転翼と安定翼をとりつけ、他の航空機が曳航して飛行するというものである。飛行ジープの試験は1943年から44年にかけて行われ、それなりの成功を収めたものの、曳航可能な強力で大型の航空機は非常に不足しており、量産は見送られた。同様の方法でバレンタイン歩兵戦車を飛行させることも検討されていたが、やはり量産には至らず計画もキャンセルされた。
第二次世界大戦当時の技術で戦車を飛ばすためには、滑空機といえども火器と装甲を極限まで切り詰めざるを得ず、陸戦兵器としての能力に問題が生じてしまった。その上、滑空中の姿勢制御や、戦車の形状がもたらす空気抵抗によって離陸時には母機の姿勢制御が困難になるなど、計画段階では予想しなかった困難に見舞われた。さらに、たとえ開発に成功したとしても、滑空させるには強力な牽引機を用意しなければならず、運用面での問題も深刻だった。
そのため、開発を続行したとしても実現可能性は極めて小さいのだが、飛行戦車というコンセプトの魅力は非常に大きく、古くから様々な媒体で紹介されている。最近でも、特三号戦車が入浴剤のおまけとしてモデル化されるなど、今なお人気を集める不思議な兵器だ。
(隔週日曜日に掲載)