時は天平時代、藤原不比等の三男・宇合(うまかい)の子として藤原式家に生を受けた広嗣。ところが順調だった出世街道は、唐より帰朝した吉備真備、僧・玄らの台頭で揺らぐことに。とくに玄は評判が悪く、それらを朝廷から除くためとして、広嗣は遷任されていた九州の太宰府で兵を挙げた。
この反乱は官軍の攻撃を受けて約二か月で鎮圧され、広嗣は非業の最後を遂げる。
しかし、やがて玄は失脚。流された筑紫で広嗣の猛霊に八つ裂きにされる。その遺体は奈良の地へ飛散し、首は頭塔山、腕は肘塚(かいな)町、眉と目は大豆山(まめやま)町に落ちたという(町名は現存する)。日本のピラミッド・頭塔は長らく玄の首塚だと伝えられてきた。
そこで陰陽道にたけた真備が広嗣憤死の地・肥前の鏡山(松浦山)に広嗣を祀り、鎮めたとされる。奈良の鏡神社は、佐賀の鏡神社を広嗣の邸宅址と伝えられる当地に勧請したものだ。
とはいえ、古来“祟り”とは神の専売特許であり、神祇官が卜占によって認定するものだった。つまり死んだ人が祟るという認識は当時はなかったのだ。
人の霊が祟った早い例は、長岡京遷都に絡んで失脚させられた桓武天皇の弟・早良親王だろう。そして道真の登場で怨霊と祟りは強く結びつき、市民権を得る。現代においては何でも祟りといわれる始末だが。
こうした流れの中で広嗣怨霊説は後に作られていったようだ。とはいえ、年代順でいえば広嗣は怨霊の元祖。その広嗣と道真がともに“太宰府”というキーワードで結ばれているのもまた面白い。
(写真「新薬師寺鎮守・鏡神社」)
神社ライター 宮家美樹