やがて、ラジオを製造するメーカーが乱立したが、シャープ・ラジオの売れ行きは相変わらず好調で、7月中に月産1万台を突破した。もう万年筆のクリップ製造には手が回らなくなっていた。ラジオは造れば造るだけ売れる状況だったが、現状の工場の生産能力には限界があった。まとまった設備資金を得るために、どういう手段があるか、徳次はずっと考えていた。借金をするのは嫌だった。
考え抜いたある日、石原時計店を訪ねる。石原時計店に入荷した外国製ラジオのセットとパーツを一手に販売させてもらえないかという相談に行ったのだ。
石原は、代金後払いで徳次に品物を卸す提案をしてくれた。その仕事ぶりと人柄を見込んでのことだ。徳次はその条件に甘えず、預かった品物は必ずその日のうちに売り切って、その日のうちに商品代金を支払った。最初は荷を背負い、次にリヤカーを買って、最後には店を出して卸販売をするまでになった。
外国製ラジオの取次販売のおかげで設備投資の資金も出来たが、ラジオの今後の見通しも、その商売の中で学んでいた。販売代行した輸入ラジオの中にドイツ製の真空管ラジオがあった。聴取距離が広いことから真空管ラジオは国産もされ始めていたが、雑音が激しく値段も輸入品並みだった。
今度は、外国製真空管ラジオを分解して研究した。その甲斐あって、大正15(1926)年が明け国産真空管が発売されると、それを使った真空管ラジオを発売することができた。名前はシャープ・ダイン。ニュートロ・ダインという外国製ラジオにあやかった命名だ。
早川金属工業研究所の発展は止まるところを知らず、新工場を増設。受信機や部品を中国、南洋、インド、南米などの各国に輸出するようになった。