「宮澤君は『僕はこの中で一番ハンサムということではないが一番若いようだ』とまず口を切り、そのあと19歳にしてはなかなかウイットに富んだ上手な英語で喋っていた。一方の庸子夫人のほうはというと、米国での学生会議の席上だったが、当時の米国による通商条約の日本への一方的破棄に言及するかのように、『女性の皆さんはそのステキな脚を、日本の特産の絹の靴下でお包みになったらいかがです。そしたら、私たちもカルフォルニアのフルーツをもっと楽しめるようになるのに』とやって会場をわかしたものです」(当時の同行学生の証言)
その帰国後、宮澤が庸子を“ナンパ”、これが結婚に結びついたのだった。庸子はその際の“ナンパ”について、おおむね次のように語っている。
「米国でのその日米学生会議の翌年でした。会議がこんどは日本側の主催として津田塾大学で開かれ、また(宮澤と)一緒になったのです。そこで話しかけられましてね、主に映画や本の話題が出ました。『宮澤賢治が好きだ』と言っていたのを覚えています。(どちらが燃え上がったかについては)あちらということでいいんじゃないでしょうか」(『アエラ』平成3年10月29日号)
結婚は米国での日米学生会議から4年目、宮澤24歳、庸子23歳であった。以後、宮澤は大蔵省で先輩の池田勇人(のちに首相)に引き上げられ、また池田のあと押しを受けて政界入りをした。
政界入り後は、米側から「小さいがよく光るダイアモンド」の声を得るなど、戦後の難しい日米交渉では得意の英語と「クールにしてドライ、泥臭さとは無縁の欧米流合理主義者」(元宮澤派担当記者)ぶりを生かして、池田の“名秘書官”として活躍したのだった。
そんな秀才と才媛の誉れ高かった宮澤夫妻の結婚後とはどんなものだったのか。なるほど、夫婦相和し、「欧米流合理主義」に満ちた家庭がのぞけるのである。次のような証言がある。
「父は私が20歳になったとき、突然、家の鍵を渡してくれたのです。大人になったのだから何をしてもいいが、責任を持ってやれということのようでした。また、私は女子大生の頃は好き勝手にやっていたほうですが、父から小言一つ言われたことはありませんでした。一方、両親の夫婦ゲンカというものも、一度として見たことがありませんでした。父は母を大事にしている一方で、むしろ女性として伸び伸びしていられる環境を作ってあげていたのだと思います」(長女の啓子・『女性自身』要約)
「子供たちがまだ幼い頃、食事に連れていくときでも、どこへ行くかは子供にも1人“1票”を与え、すべからく民主的に決めるというルールが確立していた。すべてに、欧米流合理主義が徹底していたということです」(元宮澤後援会幹部)
順風満帆だった政治家・宮澤喜一の“最大の危機”は、大蔵大臣を経たあとのリクルート事件に連座した直後の平成2年(1990年)2月の総選挙であった。妻・庸子が宮澤の選挙に顔を出したのは初出馬のときだけであり、以後は「選挙は夫のもの」で一切顔を出すことはなかった。しかし、今度だけは夫の最大のピンチ、ノータッチというわけにはいかない。庸子の取った手段は、後援会婦人部の決起大会に自らの体調不良を理由に出席できぬ旨の挨拶の手紙を出し、これを読み上げてもらうというものだった。
この手紙はコピーされ、選挙期間中、選対本部に貼り出されていたが、前出の元宮澤派担当記者は次のように言ったものだった。
「手紙という“作戦”を取ったのは、庸子夫人のせめてもの矜持だったのではとの見方があった。一方で、『日本を代表する知性のある政治家』とも言われた宮澤の妻として、支持者の前に顔をさらすことは恥ずかしく、とてもできなかったのではということです」
結果、当時の中選挙区〈広島3区〉は亀井静香(現在は引退)がトップ当選、宮澤は亀井に4500票差の2位で、からくもすべり込みに成功した。庸子の手紙“作戦”が奏功したということのようであった。
この苦境を乗り切った宮澤は、翌年、海部俊樹首相が最大派閥・竹下派の“意向”で政権を引きずり降ろされたことにより、総理のイスに座ることができた。「政治と家庭の完全分離」の中での総理誕生は、奇跡と言ってよかったのだった。
=敬称略=
(次号は、細川護煕・佳代子夫人)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。