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達人政治家の処世の極意 第十二回「岸信介」

 この国の安全保障の「かたち」を大きく変えかねない今国会最大の焦点、安保関連法案成否の行方が、いよいよ大詰めを迎えている。
 この法案の成立を悲願としているのは言うまでもなく安倍晋三首相。一方で遡ること55年前に「60年安保」と言われた日米安保条約の改定とその条約批准に政治生命を賭けたのが、この安倍の祖父にあたる岸信介元首相であった。すでに読者はご存知のように、安倍首相による安保関連法案は審議での政府側答弁の曖昧さ、説明不足に世論の大勢が反対、法案そのものへの憲法学者、歴代内閣法制局長官の「違憲」の大合唱に晒されている。
 一方の岸元首相の「60年安保」も、死者が出るなど連日の凄絶な万余のデモ、学者、文化人などの反対、阻止運動が繰り広げられたということで、状況が酷似しているのである。
 しかし、一点、大きく異なる部分がある。安倍、岸、共に政治家として将来的な憲法改正などへの使命感、信念の部分を仮に多としても、腹の座り、国民への向き合い方などにリーダーとしての差異が認められるということである。

 岸は、この「60年安保」にどう立ち向かったか。それは表記の言葉に表われている。じつは岸は反対、阻止運動のデモが高まる前に、すでに「安保」が国会を通り使命を果たしたら、首相を辞めることを決意していた。しかし、腹の内はもとより明かすことはなかった。また、1960年6月19日、新安保条約批准の自然承認が決まった日、国会周辺などに30万人の群衆が押し寄せた中で死をも覚悟していた。
 政治部記者のこんな証言が残っている。
 「岸が詰めていた首相官邸は、いつデモ隊がなだれ込んでくるかの雰囲気があった。ために、身の危険を感じた一緒にいた自民党幹部や岸の側近などは、次々に官邸を脱出した。官邸に残ったのは岸と実弟の佐藤栄作(元首相)だけとなった。当時の小倉謙・警視総監も『官邸警備に自信が持てないので退却を』と進言したが、岸は『オレは殺されても逃げる気はない。“腹”は固まっている』と、午前0時の自然承認の時間を待った。その後、朝6時を過ぎて、ようやく渋谷区南平台の自宅に戻った。岸の政治家としての使命感、信念の強さ、豪胆さが知れた」

 それでは祖父のDNAを受け継いだとされる安倍首相の場合はどうかとなると、政治家が一大仕事への行動を起こすということは、自らの立場を賭けるという意味で、岸とはいささか差異を感じざるを得ない。国会答弁はというと、曖昧さ、説明不足は明らかで、岸のような理路整然、野党あるいは国民と正面から向き合った姿勢とはかけ離れている。「しっかりやる」が常套句だが、これは答弁とは言えないのである。
 また、この法案を「今国会で成立」と強調するが、岸のような不退転の決意はあまり感じない。成立後、自民党総裁選で再選を得、来夏の参院選に勝利して憲法改正へと、視線は遥か向こうにあるように見える。信念の深さが、岸とは何か違うように見えるということである。

 かくて、「巨魁」「昭和の妖怪」とも言われた岸は米国と新安保条約の批准交換を終えるのを待ち、条約の自然承認から約1カ月後の7月19日に内閣を総辞職、退陣した。
 仮に安倍の安保関連法案が成立したあと、国防的なことも含め、果たしてこの国のメリットは明確には見えて来ない。しかし、死を賭した岸の新安保条約は、結果としてその後の日本経済の高度成長をレールに乗せることになった。戦後間もなく吉田茂元首相が主張した「軍事」を米国に委ね、経済の復興路線に力点を置いた「安保タダ乗り論」を敷衍することになったからだ。
 新安保条約により、改めて米国の軍事的庇護の下に入ることで日本は巨大な防衛・軍事費の支出を抑え、その分をその後の経済の高度成長に資することができたということである。

 一般社会でも同じ。企業などのトップとしての能力を計るバロメーターは、「使命」への強い自覚と覚悟があるか否かである。そのうえで、使命に邁進するには周囲を完璧に説得する能力が求められる。ただ自説のみに直進するのは使命感とはほど遠く、単なるゴリ押しと言うのである。
=敬称略=

■岸信介=満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣(第56・57代)などを歴任し、「昭和の妖怪」の異名もあった。

小林吉弥(こばやしきちや)
 永田町取材歴46年のベテラン政治評論家。この間、佐藤栄作内閣以降の大物議員に多数接触する一方、抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書多数。

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