ロシアパンクラチオンのリングは金網に囲まれ、グローブの着用は義務ではなく任意のため、ほとんどの選手が素手で闘っている。だが、驚くべきはそれだけではない。噛み付き、金的以外は何でもあり。ロシアパンクラチオンは他に類を見ないオープンルールが採用されていた。
その危険な格闘技を発掘したのは掣圏真陰流総師範であり、スーパータイガージム田中塾の田中健一塾長だった。究極の格闘技を探し求める田中塾長は、2004年11月に単身ロシアに渡り、現地の格闘技を視察。「掣圏道(掣圏真陰流の旧名)のアルティメットボクシングでロシア人の強さに魅了された。ロシアに行けばすごい人間がいるはず」という狙いに狂いはなく、「町を歩けば日本の総合格闘技のチャンピオンクラスの人間がゴロゴロいる」という。
そして、ロシアパンクラチオンを目の当たりにした時、「こんな究極な格闘技がまだあるのかと衝撃を受けた。日本でやっている総合格闘技の観念が吹っ飛び、いままで俺がやってきたのは何だったんだとなった。それを見てしまった以上、見て見ないふりはできない」とロシアパンクラチオンと真正面から向き合うことを決意し、闘いを挑む日本人ファイターを募った。誰もやりたがらなかったが、最初に名乗り出たのは掣圏真陰流の瓜田幸造(現UKF総合ミドル級王座)だった。だが、瓜田が惜敗してしまった。
そこで現れたのが桜木だった。日本人ファイターのひとりとして、また掣圏真陰流の一員として「このままでは終われない」と出場を決意。それは、自分の生き方を貫くための挑戦でもあった。
「田中先生が言われたように、知ってしまった以上、そのルールを一度やらないと自分にうそをつくことになる。もともと佐山先生のところに入ったのも、自分が一番落ちていた時、優しいところに行けば自分から逃げたことになる。一番厳しいところに行って、それでダメならあきらめもつくというのが根本にあった」
そして見事、ロシアパンクラチオンのリングで勝利を収めてベルトを獲得。桜木は今回が初戴冠となるが、「これは一つの形であって、これで終わりでもなんでもない。その瞬間の相手に勝ったというだけで、また同じ相手とやったらどうなるか分からない」という。
桜木は今回の王座獲得は通過点ともいう。「いろんなメジャーなチャンピオンがいるけど、僕の中では誰にも恥じないベルトだと思っています。誰でも行けるわけじゃないし、誰でも挑戦できるものじゃない。お金でも名誉でもない。格好つけた言い方かもしれないですけど、男のロマンですね」と胸を張った。
厳しい指導で知られる田中塾長だが、桜木をはじめ、さまざまな格闘家が師事しているのには理由がある。桜木は「怖いけど、田中先生のところに行けば本物を感じられる」という。さらに「ベルトを取ったことでいろんな意味で恩返しをしたい。自分が教えている子たちの自信になればいいし、僕の中で一番世の中に発信したいのは、田中先生の興行論でなく実戦論という考え。それが間違っていないと、もう一回世間に投げかけたい」と言葉を続けた。
桜木は9月13日にUKFキックボクシングのインターナショナルヘビー級王座も獲得しており、現在2冠王に君臨するが、それは飽くなき向上心と探究心が呼び込んだ結果である。総合格闘技をつくった佐山サトルの愛弟子が、格闘技に新たなうねりを起こしそうだ。
◎田中塾の成り立ち
田中塾長は修斗ライト級初代世界王者で、シューティングの頂点を極めた後も、国内にとどまらず強さを追求し、さまざまな国で単身武者修行を敢行。世界の強豪と手合わせをしている。27歳で師範となり、1999年に田中塾を結成。
04年、素手で戦うミャンマー・ラウェイの試合のため、敵地ミャンマーに乗り込んだ。田中塾の生徒が現地の王者をKOしたことは、ミャンマーだけでなく、日本格闘技界にも衝撃を与えた。
究極の格闘技を目指すスーパータイガージム田中塾・船橋武道センターでは、「格闘技だけの指導ではなく、人間としての礼節、マナーをしっかりと教える」形を取っている。
<プロフィール>
桜木裕司(さくらぎ・ゆうじ)。1977年7月20日生まれ。宮崎県宮崎市出身。高校入学を機に極真会館宮崎支部に入門。わずか1年9カ月で初段を許され、ジュニア時代には高校タイトルを総ナメにし、エリート空手家の道を期待される。
高校卒業後、自衛隊を経て日本体育大学入学と同時に上京。顔面攻撃の重要性とより実戦性を追求して、さまざまなジムで練習を積み、2000年7月に生涯の師である佐山サトルと出会い、掣圏道に入門。入門3カ月目にアルティメットボクシングでプロデビューを果たす。国内外のさまざまなプロモーションでルール、対戦相手を選ばず激闘を繰り広げている。現在は掣圏真陰流師範を務めている。