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愛知県西三河地方のふしぎ話「明勝寺の雨乞いの龍」

 愛知県豊田市上野町にある明勝寺は明応(1493)年の草創で、現在の地より西方約300mの寺部領法沈下で、梅坪の安長寺開基正連坊円信が法沈山明勝寺と号して開基した。正連坊は俗名を杉浦安長といい、加賀国(石川県)の大杉谷の領主であったが戦乱に破れ、本願寺八代蓮如の弟子となり、蓮如に随従して、この地に入った。江戸時代初期、六世法珍の時代に度重なる矢作川の氾濫のため、堤防改修の用地として、寺院敷地を提供したことや寺部領主と不仲であった為、大嶋領である現在あるの上野山村の不動堂に移り、安長寺の次男祐順を七世とした。

 明勝寺の本堂正面の欄間には、今にも動き出しそうな見事な龍の彫り物がある。作者は、牛久保(現在の豊川市牛窪町)の五右衛門と伝えられている。この龍は体が一つで、頭が二つあり、「一軀双身の龍」と呼ばれている。右側がいかにも力の強そうな雄の龍で、左はどことなく優しそうな雌の龍で、二匹は向かい合っている。また「雨乞いの龍」とも言われ、日照り続きで困った農民達がこの龍にお願いしたところ、雨が降って救われたといわれている。龍の彫り物は創建以来同じ場所に飾られており、塵や埃が積もっていた。

 ある時、欄間を見上げていた男が、「これでは空を飛ぶことも、雲を呼ぶことも、雨を降らせることも雷を走らせることもできまい」と言い出した。村人達は相談の末、自分達で洗ってあげることにした。早速、村人達は、和尚にお経を上げてもらい、欄間から龍を外し、洗い始めた。すると、今まで晴れ渡っていた空が真っ黒な雲に覆われ、風も激しくなり、大粒の雨が降り出した。風はさらに激しくなり、雨は滝のようになり、田んぼから水が溢れ出した。このような天候が四日五晩も続き、遂に矢作川の堤防は決壊し、家々や田畑もスッポリとのみこまれてしまった。矢作川の流域は洪水のため、壊滅的な被害を被り、たくさんの死者も出た。それからというもの、この龍の彫り物に手を触れる者はいなく なったという。

(皆月斜 山口敏太郎事務所)
写真:「明勝寺」愛知県豊田市上野町1丁目9

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