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【追悼】元横綱 輪島さんがプロレス・格闘技界に残した功績。レスラー時代を振り返る

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画像はイメージです

 大相撲の第54代横綱、輪島こと輪島大士さんが死去したことが9日分かった。70歳の若さだった。

 横綱でライバルの北の湖さん(故人)とともに、70年代の大相撲界で“輪湖時代”を築いた輪島さんだが、81年3月場所引退後、自身の借金問題などが原因となり、85年12月に日本相撲協会を退職(廃業)した。

 翌86年、ジャイアント馬場さん(故人)の全日本プロレスに入門。馬場さんはパット・オコーナーや、ネルソン・ロイヤルといったアメリカの名レスラーに輪島さんを預けて、当時日本テレビのゴールデンタイムで放送していた『全日本プロレス中継』の新たな目玉にするべく、デビューに向けた準備を進めた。しかし、横綱まで登りつめた逸材とはいえ、年齢は38歳。体に染みついた相撲の癖が抜け切らず、デビュー戦は同年8月に馬場さんとのタッグで、日本ではなくアメリカで行っている。これは日本でのデビュー戦で恥をかかせないため、予行練習的に行ったものであり、横綱への配慮だったと言われているが、相撲時代に“黄金の左”と言われた左の喉輪とかち上げを合わせた必殺技、ゴールデン・アームボンバーを披露し、上々のデビュー戦だった。

 日本でのデビュー戦は、同年11月1日に地元である石川県の七尾市総合体育館で行われた。当時、全日本プロレスのトップヒールだったタイガー・ジェット・シンと対戦。試合は噛み合うことなく、5分55秒両者反則で終わったが、ゴールデンタイムで放映されたテレビは23.5%(ニールセン調べ)という高視聴率をマーク。日本相撲協会は全日本に対して無期限の国技館使用(貸し出し)禁止を通達したが、『全日本プロレス中継』をゴールデンに復活させた長州力らジャパンプロレス勢が新日本プロレスにUターンしたこともあり、輪島さんは全日本の救世主となる。

 そんな輪島さんに対して、世界最高峰だったNWA世界ヘビー級王座への挑戦や、長州が返上したPWFヘビー級王座決定戦に抜擢されるなどカード的には優遇されていたが、試合内容の評価は極めて低いものだった。そんな輪島さんを見た同じく大相撲出身の天龍源一郎は「横綱には強くあって欲しい」と激しい攻めを展開。大相撲では“格下”だった天龍の熱意に輪島さんも応えて、胸を張って受けまくったため、両者の絡みはこれまでの全日本にはなかった熱を生んだ。天龍と輪島さんの試合をテレビで見た“格闘王”前田日明(当時新日本)が「これをやられたら俺らの存在意義がなくなる」と思ったのは有名な話。その後、前田は長州の顔面を蹴ったことが原因となり、新日本を解雇され、第2次UWFを旗揚げ。UWFブームを築き、後の格闘技ブームへと繋がっていく。

 輪島さんは2年間でプロレス生活にピリオドを打ったが、ゴールデン・アームボンバーは田上明が喉輪落としとして継承。現在では更に高角度に持ち上げるチョークスラムとして身長が高いレスラーが使う世界的な技となった。また、天龍はこれがきっかけとなり天龍革命を起こし、全日本のエースだったジャンボ鶴田さん(故人)の対角線に立ち、激しいプロレスを継続。輪島さんがプロレスラーに転向しなければ、天龍や前田が決起することはなかったかもしれないわけで、“プロレスラー輪島大士”がプロレス界、そして、格闘技界に残した功績は大きい。

 プロレス引退後は、とんねるずのバラエティ番組でまさかの“日テレ復帰”をし、若者からも人気を集めた。また、アメリカンフットボールのコーチを務めたり、大相撲の解説をするなど、精力的に活動を続けていたが、2013年12月に咽頭がんの手術を受け、発声が困難な状況になり、15年11月20日にライバルだった北の湖さんが亡くなった際にもコメントだけ寄せていた。

 SNSではプロレス時代、バラエティ番組時代を知る世代から惜しむ声が次々に発信されており、ツイッターのトレンドでは3位に入っている。平成の終わりに昭和のレジェンドがまた一人逝ってしまったのは寂しい。

合掌

文・どら増田
写真・舩橋諄

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