「特攻というのは敵艦の横っ腹から突っ込むというイメージがあるでしょ。そうではないんです。敵艦の真上から真っ逆さまに急降下していく。予科練で同期やった連中が『先に行くから後を頼む』と言って、突っ込んでいくのを見送るわけですが、その時は悲壮とか悲惨という感じは少なかった。それより『次は俺や!』いう気持ちの方が強かったです。私も特攻を志願したのですが、そうならずに済んだのは、当時の副長・玉井浅一中佐に『特攻はいつでも行ける。それよりお前、内地に帰り、俺の代わりに戦友の墓参りをしてくれ』と言われたからです。もし上官が玉井中佐でなければ、私もおそらく特攻に出ていたでしょう」
内地に帰任した笠井氏は、松山三四三航空隊に所属する。同部隊は、海軍戦闘機隊の頭脳・源田実中佐(当時)が本土防空のために編成した最強の航空隊。戦闘機は最新鋭の『紫電改』で、パイロットも選りすぐりのメンバーが集められた。笠井上飛曹は、ここで終戦まで、名隊長・菅野直大尉(当時)の指揮の下、激烈な空戦を戦い抜いた。
「菅野大尉も杉田さんと同じくらいの快男児でした。J2(『紫電改』のコードネーム)を初めて見たときの感想は、ほんまに凄い、格好良い戦闘機ができたなぁと。これならグラマンと互角に戦える、という自信がつきました。それまでとにかくやられっぱなしやったからね。オレンジ色に塗られたテスト機は、仲間の間で奪い合いでした」
大戦末期、敗色が日ごと濃厚になる中、最前線でアメリカ軍機と渡り合ったのは笠井氏のような予科練出身の十代の戦士たちだった。
「このままでいけば日本はどうなるか? 上の人はいざ知らず、私らはそんなこと思いもしませんでした。敵機を目の当たりにして、こいつらに負けてたまるかという敵愾心。そう思って戦うことが、国のためになると信じていました。それから、アメリカ軍と戦っていて負けると思ったことなんか一度もなかった。ただ、力の違いを感じることはありました。グラマンは墜としても墜としても次から次と出てきよる。それに比べて我が軍は、一度手ひどくやられると立ち直るのに時間がかかる。ほんまにアメリカいう国はいったいどんな国やねん…。それが当時の偽らざる気持ちでした」
明日をも知れぬ戦いの中、十代の若者に浮き世の未練はなかったのだろうか。
「私ら若いのは、目の前の敵とどう戦うかに精一杯で、そんな余計なこと考えてるヒマなんかなかったです。でも女子学生にもてはやされるのは、やっぱり気分が良かったですね」
こう語り、笠井氏は1枚の写真を見せてくれた。松山の女子学生からプレゼントされたマフラーを身に纏い、愛機の前で腕を組む紅顔の少年飛行兵−−。笠井氏お気に入りの1枚だ。
'45年8月15日。終戦の玉音放送を信じる気になれず、まだまだ戦うつもりでいたが、源田指令に諌められて矛を収める。戦後は一般企業のサラリーマンとして定年まで働き、伊丹市のシルバーボランティアを経て自適の日々を送る。そして今、終戦から70年の時が過ぎた。
「私が言うておきたいのは、今から70年前のこの日本に、私利私欲も何もなく、国のために戦い死んでいった多くの若者がいたということ。彼らの犠牲の上に今の日本があるということを忘れんといて欲しい。あの戦争で笑って散った人たちの遺訓と感謝の気持ち、慰霊の心を正しく伝え、愛国の心を涵養してもらいたい。ただそれだけです」
笠井智一氏
1926年(大正15年)3月8日、兵庫県多紀郡篠山町(現・篠山市)生まれ。1942年(昭和17年)4月、鳳鳴中学4年時、予科練甲飛第10期生に合格して海軍へ。終戦時は上飛曹。