W(元理事)「新馬が中山や府中を目標にして、横浜に頭数があまり集まらなかったのはなぜだろう?」
N(元騎手)「それは、横浜が3月で、競馬シーズンの皮切りだった。一番早かったからじゃないかな。昔は4歳(現3歳)からだったからね。それでも、全国から馬が集まってきていた。」
T(元理事)「コースが急で、レースに向いていないというのは、慶応2(1866)年、幕府が大急ぎで造成させられたからかな。」
K(元騎手)「実際に乗った人が設計していれば別だった。」
T「競馬を知らないお侍さんが指示して造ったとしか思えない。」
工事には根岸村の村民たちが駆り出されたそうです。完成して1年目に雨か何かで一部が壊れてしまい、大急ぎで修復させられたのはいいが、幕府に工事費を値切られ、困った村民が何とかしてくれという古文書が残っている、という説もあります。
W「全部が民有地だったからかな。」
それに、競馬を始めたころは、今のサラブレッドと違って、道産子のような在来馬で走っていたせいもあるでしょうね。皆さんが走っていたころは、本馬場はもうちゃんとした芝でしたか?
N「本馬場はいい芝がついていたな。手入れはよかったね。」
T「造ったのは日本人でも、管理はイギリス風のしっかりしたものだった。」
N「やかましかったよね。」
K「女の人が草取りしてたね。芝馬場に女性を入れるのは大変やかましかったけど、草取りだけは別だったんだね。」