「俺はあいつの幸せな顔を見るのが好きなんだ。そのためだったら、仕事ぐらいいくらでもやってやるよ」
Fさんと妻は恋愛結婚である。Fさんはスキー場がある山村で身寄りのない彼女を見つけ、結婚したという。当時、仕事と都会の生活に疲弊していたFさんは、彼女の素朴なところに感激し、出会ってから3カ月後に電撃的に結婚した。
「俺はさあ〜、あいつの純朴なところが好きなわけよ」
ある夜のことだ。Fさんは取引先と飲酒をし、ほろ酔い気分で帰宅した。自分の部屋はマンションの5階である。いつもは自分の増え続ける体重のことを考慮して階段を上るところが、今夜は深酒がすぎたこともありエレベーターに乗ることにした。
(さすがに、今宵は飲みすぎってやつだ。もうだめ、エレベーターにしよう)
Fさんが、千鳥足でエレベーターホールに向かった時、階段の踊り場に、何やら怪しい人影を目撃した。
(なんだー、あー泥棒か?よし、とっちめてやろう)
酒で、いささか気が大きくなったFさんは、非常階段へ人影を確認しに行った。
でも何もいない。誰もいないのだ。
(なんだ、勘違いってやつか。まだ俺は酔ってるのか)
Fさんが引き返そうとした時。
背後に殺気を感じた。
そーっと振り返るとそこには、灰色の髪の毛をした老婆がいた。
目を血走らせ、口からよだれを垂らしている。とても人間の表情とは思えなかった。
しかも、この老婆は、地面をはっているのだ。
「ギュルルー ギュルルー」
老婆はうなり声を上げている。すきあらば、Fさんに飛びかからん様子である。地をはうその姿はまるで犬か狼のように獰猛(どうもう)であった。
「この化け物やろう。これでも食らえ」
Fさんは持っていた傘でその化け物を殴りつけた。2、3発殴った後、その化け物は腕から血を出し、一瞬だけひるんだ。
(よ、よし、今のうちだ)
そのすきにFさんはエレベーターホールまでエスケープした。追ってくる様子はない。
(今見た、あれは何だ。まさか、ああいうやつが妖怪ってやつか。はい回りながら人を襲う老婆なんて聞いたことがないぞ)
Fさんはふらふらになりながら自宅に帰宅した。
ほっと一息ついたFさんを、妻が向かえてくれた。だが妻は、何やら元気がないように見える。先ほどのこともある。Fさんは心配になり、尋ねた。
「おい、今日は、なんだか元気ないじゃないか。何か、あったのか?」
「ええっ、何でもないの。さっき料理をしてて右手をけがしたの」
妻は包帯を巻いた右手をFさんの前に差し出した。
その負傷箇所は、ちょうどの老婆が血を流した場所であった。
(監修:山口敏太郎事務所)