鹿児島県出水市出身の外木場は地元・鹿児島県立出水高校から電電九州を経て65年に広島カープに入団した。79年までの15年間、広島一筋でプレーをし、通算成績は131勝138敗3セーブ、防御率2.88。この数字だけ見ると名球会に入るような大投手には見えないが、実に3度もノーヒットノーランを達成した伝説の投手だ。日本の球史の中でノーヒットノーランを3度も達成したのはアノ沢村栄治とこの外木場だけ。2リーグ制以降のプロ野球では外木場だけだ。しかもうち1試合は完全試合である。
外木場の伝説を振り返ってみよう。まず、最初のノーヒットノーランはいきなりの達成だった。65年10月2日の阪神戦で、プロ入り後2度目の先発だった。それも当初予定されていた大場進投手が不調のため急遽の登板だった。代理先発にもかかわらず、3回に死球のランナーをひとり出しただけのノーヒットノーランを達成した。当時のスポーツ紙担当記者は「この試合の相手投手は、外木場自身が大ファンだった村山実でした。外木場は村山と投げあうことが夢だったと言っていたので、正直、緊張でダメなんじゃないかと思ったら真逆。冷静なピッチングで緊迫した投手戦をものにし、お立ち台では“もう一回やりましょうか?”と余裕たっぷりにコメントしていましたね。その大物ぶりが大記録達成に繋がったのでしょう」と、当時を振り返る。
2回目のノーヒットノーランは68年、根元睦夫監督のもと先発ローテーション入りしてからだ。9月14日の太洋戦で打者27人を114球で完璧に抑え込み、完全試合を達成した。しかも、セ・リーグ記録に並ぶ16奪三振のおまけ付きだったから恐れ入る。
まさか、これ以上のノーヒットノーランは達成できるまいと思ったが、72年、V9時代の巨人相手に失策と王貞治に四球を与えただけでまたも偉業を達成したのだ。
外木場の活躍は、弱小球団だった広島の悲願の初優勝にも多大なる貢献をした。75年、開幕を自身の100勝で飾った外木場は5月に月間MVPを獲得するなど大活躍。シーズン後半はリリーフにも貢献し、広島を球団創設以来26年目にして初のリーグ優勝に導いた。このシーズン、最多勝と最多奪三振のタイトルも獲得し、沢村賞も受賞した。
常時150キロ出ていたというストレートで対戦相手を翻弄し、ファンを魅了した外木場は6年連続でオールスターにも出場するなど、人気もあったが、優勝貢献への無理がたたったのか、右肩を痛め、79年に引退した。
その後は広島やオリックスでコーチをしたり、中国放送の解説者などをしていたが、06年からは「プロ育成野球専門学院・広島校」の投手コーチとし後進の指導に当たっている。この学校のカリキュラムには野球の基本技術や戦術の習得はもちろん、スポーツ医学の講義なども含まれており、プロで功績を残しコーチ業も長かった外木場の選手育成に期待がかかる。