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愛知県西三河地方の伝説 「塩の道とも呼ばれた中馬街道」

 江戸時代、中馬(ちゅうま)街道は別名「塩の道」と呼ばれ、三河湾や知多湾で採れた塩や海産物などを船で矢作川をさかのぼって足助に集め、足助から馬の背に乗せて信州へ運んだ道のことである。

 中馬とは信州の農民が農閑期を利用して、自分の馬の背中に荷物をつけて運び、賃金を受け取る馬稼ぎのことをいう。特に飯田辺り中心に大勢いたが、愛知県豊田市稲武地区にも250頭の馬が飼われて、物資の運送をして暮らしていた。当時の稲武村は1日に馬子が何百人も往来するので、馬宿、問屋、飯屋、商店が建ち並び、中馬のために栄えた宿場町であった。

 中馬には2種類あり、「つぎ馬」や「日戻り馬」というのは、宿場から次の宿場まで運び、馬宿には泊まらず、家から出て家に帰る。「通り馬」は名古屋〜塩尻に馬宿に泊まり重ねて直接運んでいた。
 馬子は一人で4頭の馬を引いて運んでいた。信州への道はいくつもの峠を越えなければならないので苦労していた。山中では山賊が出没するため、大勢で群れて運んだという。

 中馬街道は名古屋塩尻線とも呼ばれ、現在の国道153号になる。明治35(1902)年、中央本線の開通により、中津川から昼神温泉を経て、飯田に物資が配送されるようになり、中馬街道はその使命を終えた。

 現在、江戸時代から続く足助の町並みでは、毎年2〜3月に「中馬のおひなさん」のイベントが開催される。中馬街道沿いに面した約140軒の商家や民家では、土雛・衣装雛を飾り展示され、多くの観光客で賑わう。

(写真:「中馬のおひなさん」愛知県豊田市足助地区)

(「三州の河の住人」皆月 斜 山口敏太郎事務所)

参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou

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