ところが、演説会場ではイマイチ説得力に乏しく、反応が薄いと、素早く話を他に切り替えた。しかし、「アノ問題はどうしたッ。逃げるな」などヤジの猛攻は続く。こうなると、もはやダメである。弁明これ努めようとするたびに、緊張感からまた例の吃音と化し、話が詰まってしまう。聴衆の方もやがて面倒になり、「演説はもうええ、チョンガリ(ナニワ節)でも聞かせてみれ」の声が飛ぶといった具合だった。こうなれば田中の独壇場、「ヨッシャ」の一声とともに直ちにチョンガリに替えるなど“臨機応変”で臨んだのだった。
このチョンガリは、もとより玄人はだしだからこちらは大ウケ。天中軒雲月、伊丹秀子、春日井梅鶯、寿々木米若、広沢虎造、玉川勝太郎、東家浦太郎と何でもござれでリクエストに応え、中でも「杉野兵曹長の妻」の一席は好評でナカナカ涙を絞らせたものだった。
昭和24年1月23日の開票日。結果、田中は民自党の公認からも外されての無所属出馬、加えてラジオの選挙放送を1回もできなかったにもかかわらず、前回票に3500票を上積みして4万票を超え、辛くも〈新潟3区〉2位で2回目の当選を果たしたのだった。
しかし、この選挙で「炭管」問題のミソギを果たした格好の田中ではあったが、その余韻は冷めやらずで、その後しばしの「雌伏の時代」を余儀なくされた。中央政界で暴れる場はなく、左前になった田中土建工業の再建と新潟県内での“仕事”に汗をかくことになる。
新潟県内では、赤字で廃線寸前の「長岡鉄道」再建のため経営に参加した。この長岡鉄道は三島郡寺泊町-西長岡間31.6キロ、西長岡-越後町来迎寺間7.6キロの2路線を持つ大正時代の初期に開業された小さな民営鉄道で、しばし豪雪でストップ、そのたびに三島郡の住民は足を奪われたものであった。社長に就任した田中は臨時株主総会の席上、こう意気込みを語っている。
「私が社長を引き受けたのは、三島郡住民の悲願である路線の電化であります。まァ、私の親父(角次)などは『赤字会社の社長になる奴はバカだ』と言っておりましたが、私は断固やるッ。これをやれなかったら、私は二度と故郷の土は踏まん覚悟である!」
社長以下重役は全員給料ナシでスタート。日本興業銀行などから1億3000万円ほどの融資を取り付け、やがての昭和27年にこの長岡鉄道は全路線電化完成を見ることになる。ちなみに、このときの電化工事の最高責任者は国鉄の電気局長から政界に転じたばかりの西村英一であった。後に、この西村は田中派の大幹部として自民党副総裁などを歴任、数々の政争では田中の後ろ盾となって二人三脚で切り抜けることになるのである。西村と田中の出会いは、この長岡鉄道が嚆矢ということになる。一方、またこの長岡鉄道は後の昭和35年10月、中越自動車、栃尾鉄道と3社合併して「越後交通」と名を改め、長岡を中心に田中の選挙区〈新潟3区〉内の交通路を完璧に握り、やがて田中の強大な選挙マシンとなっていくことになるのである。
さて、長岡鉄道の全路線電化が完成した昭和27年、この年10月の総選挙で田中は三度目にして初めてトップ当選を果たした。以後、政界引退までトップ当選を譲ることはなかった。この三度目の選挙では、あらためて交通の便を得た三島郡住民の圧倒的支持を得たことが大きかった。二度目の選挙では三島郡からの得票はわずか2千600票だったが、4倍近い9千800票を得たのだった。苦境に立った三島郡の住民の“報恩”に他ならなかったが、三島郡からの票は田中が引退するまで、生地の刈羽郡に次ぐ実に得票率30%を出し続ける大票田となっている。
ここでは、田中の一連の行動力には政治家としてのしたたかさ、住民にとっての利便性にエネルギーを注ぎ込むという政治家本来の「公的利益」を両立させている炯眼を見ることができる。すなわち、政治家としての田中には選挙に勝つという野心の一方で、決して「私的利益」だけに目が向いていなかったということである。
人間には、野心という属性がある。しかし、それだけで突っ走っては周囲の支持はない。ここでの田中のすごさは、「公的利益」への目配りを両立させ、野心、思惑をうまくコントロールさせた点にある。これが田中流の組織拡大術、やがては強大無比の人脈構築へつながった秘訣ということである。2年前にNHK大河ドラマの主人公にもなった名軍師と謳われた黒田官兵衛もまた、野心、思惑のコントロールの必要性を、主君の秀吉に進言したことで知られている。(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。