猛氏が23歳の時に行われた76年モントリオール五輪代表選考会。実力では猛氏の方が上だったが、走り込み過ぎて代表の切符を逃し、兄の茂氏だけが出場となった。
続く80年モスクワ五輪は、日本男子マラソン界の実力がピークに達していたといわれる中、「1人を出すものではない」という関係者の声で、茂氏と猛氏の2人の切符が揃えられた。だが、ソ連のアフガニスタン侵攻で、まさかのモスクワ五輪ボイコットとなり不参加となった。
「これほどツイている兄弟はいない」(茂氏)と喜んだ矢先、逆に「ツイていない兄弟はいない」と、自分たちのことをこう表現していた。
猛氏は、96年の別大毎日マラソンを最後に現役を引退。兄・茂氏とともに旭化成の副監督となった。その後、監督となった茂氏が05年に退任すると、後を継いで現在は猛氏が監督を務めている。そして、日本陸連の長距離・ロード部門の指導者にも推挙されている。
同特別委員会委員長の沢木啓祐氏(日本陸連専務理事)は「女子はそこそこ選手が育っているが、男子はまだだ」と、猛氏の指導にかなりの期待を寄せている。また、委員長代行の木内敏夫氏(富士通監督)も「タッグを組んでいきたい」と歓迎ムードである。
男子長距離・ロード界の指導者たちは、猛氏と男子マラソンの復活に思いを寄せている。
猛氏も「兄たちなどが残した旭化成の長距離の“遺産”をしっかり守っていかないことには、指導者としての立場もない。常に計画を立てていきたい」と、茂氏とは違った指導方針を表に出し、若手選手にその“道”を説明している。
生まれながらの長距離ランナーの宗猛氏、今はその指導も円熟してきている。
◎日本男子マラソン界に第二の旋風を巻き起こす
宗猛氏は、現在、旭化成陸上部監督。双子の兄・茂氏、そして瀬古利彦氏とともに80年代の前半、日本マラソン界のビッグ3の実力者だ。
茂氏とともに中学時代より陸上競技を始めた。中学2年で兄弟揃って大分県内(臼杵市出身)1周駅伝に出るなど、早くから地元では注目されていた。
大分県立佐伯豊南高校に進学、全国高校駅伝にも出場した。卒業とともに71年、宮崎県延岡市の旭化成陸上部に兄とともに入部、やがて全国レベルの頭角を現わした。
73年3月、延岡西日本マラソンで初マラソンを走り、2時間17分46秒6で茂氏に次ぐ2位となった。75年12月、福岡国際マラソンでは6位。78年4月の毎日マラソン(現・びわ湖毎日マラソン)で初優勝。
数々のエピソードを持つ猛氏は、旭化成で後進の指導を行うと同時に、「しっかりと日本男子マラソンの不振をカバーしたい」と選手強化に尽力している。