分流のためダム建設工事を請け負ったのは政府出資の電源開発株式会社(「電発」)で、昭和29年春からいよいよ突貫工事に着手した。高さ157メートルの巨大コンクリート壁の奥只見ダムを、前人未踏の秘境の地に造らなければならない。そのためには新潟県の上越線小出駅から湯文谷村の大湯温泉まで10キロの直線道路を造り、次いで22キロ先のダム建設地まで山また山をブチ抜いてトンネル道路を造る必要があった。ために、砂利、機材を運ぶための道路造りが先決だった。
田中のヒラメキは、まさにここにあった。「電発」はまず大湯温泉から先の22キロの道路造りから始めたが、その内、何と18キロが難工事のトンネル掘削工事であった。この工事で、いち早く新潟県民が潤った。当時の工事関係者の証言がある。
「この工事は当時のカネで40億円、新潟県始まって以来の大事業になった。奥只見には飯場が林立、新潟以外からも土木作業員が集められ、その数7000人を超えた。中で、特に北魚沼郡の農民は田んぼを耕しているよりよっぽどゼニになるということで、いっせいに作業員に“転向”してしまった。その後、北魚沼に土建業者が増えたのはその名残りだった。まぁ、この工事で札束がどんどん入ってくるもんだから皆すっかりアタマがおかしくなり、連日連夜、大湯温泉でドンチャン騒ぎをやる者が続出したもんです。一方で田中の長岡鉄道も、砂利、機材の運搬や独占販売で大もうけをしている。水で争い、道路をタダで造らせ、その上で誰もが潤う。田中のとんでもない頭の良さには、誰もが感心した」
田中のその超頭脳はまだまだこれに収まらず、さらに先を読んでいた。こちらは、地元記者のこんな証言となっている。
「道路を造るための用地買収は“割高”になる一方、道路ができるからその周辺の地価も当然ハネ上がる。また、豪雪地帯ゆえに除雪事業があり、トンネルは年中手当てをしていないと危険なゆえ補修事業も不可欠で、これが長らく公共事業として周辺住民および田中を潤すことにもなった。さらに、電発にとってダムがいざできてしまえば道路は不用になる。しかし、放っておけば道路補修から何まで、すべて自分のところでやらなきゃならない。カネが出るわ出るわで、やがて持て余し始めた。
田中のすごいところはここにもあり、今度は頃合いを見計らってこの工事専用道路の新潟県への払い下げを持ち掛けた。さらに、この道路を県道申請し、これも通してしまったんです。結局、県道編入ということになり、道路補修は全部県が面倒を見る形になり、補修の仕事でまた地元の土建業者も潤うという形になった。田中の発想は一石二鳥どころではなく“一石五鳥”くらいまでつながっている。タダ者ではないことが、よく分かる。こうして只見川騒動を契機とした形で、とりわけ南・北魚沼地方を中心に田中は“使える政治家”として認知を受けることなった」
田中におけるこうした道路と、以前にも触れた鉄道への誘導、敷設は、それまで閉ざされていた言わば光の当たらぬ所に住む者にとってはまさに僥倖、「現世利益」以外の何物でもなかった。一方で、政治家としての住民からの求心力は、この付与が何よりも強力であることを明らかにした。選挙について言えば、国家百年の大計へ向けて理想の旗を掲げる以上に、道路一本、鉄道一本などの「現世利益」の付与がはるかに効果があるということである。
こうした住民からの求心力は、やがて田中の選挙区〈新潟3区〉で実に会員数10万人を誇った空前絶後の最強の後援組織といわれた、かの有名な「越山会」として結実することになる。選挙のときは、この組織が巨大集票マシンとしてフル稼動する。後に、「越山会」最大の危機といわれた田中がロッキード事件一審実刑判決を受けた昭和58年12月の総選挙で、落選もあり得るとの報道の中、22万票という前代未聞の票を出し、その後、病いに倒れて国会登院一度もなしの同61年7月のそれでも18万という票を出してみせたのも、この組織の完璧な機能によるものだったのである。
田中は政治家にとって不可欠のこうした後援組織を、たった一代で築きあげた点が白眉であった。もとより、あらゆる組織というものは一朝一夕にはできない。田中もまた「現世利益」付与の一方で、文字通り地を這いずり回るような汗をかいている。組織とは、どう拡充していくものなのか。田中はそれを教えてくれる。
(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。