「頭の欠けてしまったお地蔵様を何年も放置しておいたのが病気やケガの発生原因かもしれない」と人々は思い、「最近の不幸が続くのはお地蔵様の祟りかもしれない」「きちんとお祀りしなければいけない」という噂が町中に広まってしまった。
そこで、町内会は会議を開き、寄付金を集め、新しいお地蔵様を建立することにした。そしてすぐに新しいお地蔵様が建立され、昭和52年8月24日に地蔵祭りとお地蔵様の開眼供養も執り行われた。それ以後、町内では原因不明の病気にかかる者やケガをする者いなくなったという。
このお地蔵様は「小松原地蔵」といい、建立されたお地蔵様は、これで3代目となった。もともと、初代の小松原地蔵は、この地域でも有名だった造り酒屋の寺田伝兵衛の分家である寺田半兵衛という者が江戸時代頃に寄進したものであったと伝えられている。寺田家では代々、正月に鏡餅を供えて、小松原地蔵を大切にお祀りしてきた。
ある時、この地方で賭博・花札が大流行したことがあった。博打打ちはどうしても勝ちたい一心で縁起を担ぐものである。ある男が、このお地蔵様の欠片を巾着袋に入れて賭け事をしたところ、大変儲かった。そのことが博打打ちの間に口伝いに広まっていった。そして、多くの博打打ちがお地蔵様の身体を削って持っていったので、お地蔵様は次第に小さく、形が判らないほどになっていった。恐らく、かなりご利益があったのであろう。大正時代初期頃になると、小松原地蔵は原型をとどめない程に変わり果てた姿になってしまっていたという。
そのような姿を見かねて、町の有志は2代目の小松原地蔵に建て替えた。それ以後、2代目の小松原地蔵は、博打打ちに身を削り取られること無く、戦中、戦後と、この場所で世の中の移り変わりをジッとご覧になりながら、人々を見守ってきたのであった。
(写真:「小松原地蔵」愛知県豊田市花園町)
(皆月 斜 山口敏太郎事務所)