安倍晋太郎はわが総理大臣、安倍晋三の父君である。岸信介元首相の長女・洋子と結婚、次男として晋三をもうけている。表題の言葉は毎日新聞政治部時代に体得した「要諦」が、後年、政治家になったときに役立ったことへの述懐である。
こうした安倍の言葉を一般社会に当てはめれば、例えば企業などでは業績の盛衰、意外な人事等々、アレ? と驚くような現実に直面することが多々ある。しかし、こうしたことに驚いているだけでは何の意味も持たない。これが今後どのような問題を惹起していくのか、その行方を分析する眼を持てと言っている。
そうした眼を養っていれば、後年、自分が会社の幹部になり、同様の場面に直面しても、その蓄積が冷静な判断を呼ぶのだ、ということである。
安倍は政治部記者時代に同じ山口県出身の岸信介を知り、それが縁で娘の洋子と見合い結婚した。一族がそうだったように郷土の英雄、高杉晋作を尊敬していたことから一字を取り、次男を晋三と名付けたのだった。記者生活は約8年間。その後、岸の秘書を経て政界入りを果たした。毎日新聞政治部で安倍の4年後輩だった故三宅久之(元政治評論家)は、安倍の横顔を次のように話してくれたことがある。
「記者時代は“岸ルート”で特ダネも物にしたが、特オチもあった。目から鼻に抜けるようなタイプではなく、歯に衣を着せずにズケズケ物を言うことも多く、言うなら竹を割ったような性格だった。一方で、茫洋、お坊ちゃん育ちでお人良しだったが、シンは強かった。記者の退職金は当時8万円(※注:今なら100万円ほど)だったが、後輩、同僚十数人を引き連れて銀座のキャバレーに行き、一晩で使い果たしたというエピソードがある。政治家になって政策には必ずしも強くはなかったが、先見性にはなかなかのものがあった」
先見性とは表題の言葉にある「物事の行方の見定め」ということでもあるが、その典型的な例が、佐藤(栄作)政権のあとを争う昭和47年の「角福」戦争にあった。当時、安倍は岸派を継いだ福田(赳夫)派の参謀兼行動隊長格で、時に福田は田中角栄と天下を争っていた。このときの総裁選での両陣営の多数派工作の裏面を、筆者も取材している。
総裁選の半年くらい前から田中は「情と利」のあらゆる手を駆使、田中派幹部たちも田中支持を集めるために他派議員の懐柔に奔走していた。一方の福田はとなると、一部に佐藤の福田への政権「禅譲」説が流れていたこともあり、人の良い福田は積極的な多数派工作を怠っていた。
ところが、安倍は天下分け目の総裁選のはるか前に、佐藤や田中の性格分析に加え他派の動向を察知、多数派工作の必要性を福田に進言していた。しかし結局、福田は動こうとはしなかった。結果、田中は大平(正芳)派、中曽根(康弘)派、三木(武夫)派の支持を固めて福田を一蹴、天下を取ってしまったのだった。まさに、安倍の「現実に驚くのではなく物事の行方の見定め」に重きを置かなかった結果と言えた。福田が安倍の先見性を汲んでいたら、結果は変わっていた可能性もあったのである。
いささか失意の安倍ではあったが、田中角栄首相がロッキード事件を機に失脚、三木武夫に政権が回って以後、それぞれの政権に先見性と党内調整のうまさから三木内閣で農相、その後に福田赳夫が政権の座に就くや官房長官、またその後の鈴木(善幸)政権では党政調会長の重責を任されることになる。
こうした一方で「福田派のプリンス」の声もあった安倍は、初当選同期の当時の田中派幹部だった金丸信(後に副総裁)から同じ田中派の有望株だった竹下登(後に首相)共々「君たち2人で協力しながら天下を競い合え」との激励を受け、竹下と安倍は「タケちゃん」「アベちゃん」と呼び合う仲になった。この両者に向け、当時、気鋭の小坂徳三郎を加えて、世代交代を嫌うベテラン議員からは「憎い安竹小」とのカゲ口も出るなど着実に政界の階段を昇っていった。
しかしその後、中曽根(康弘)政権が誕生、5年余の長期政権が終わるとき、中曽根は後継に最大派閥を擁する竹下を「裁定」、その竹下は自分の後継に安倍を描いたが安倍は無念の病いを得、ついに天下を取るには至らなかったのである。
一方で、「アベちゃん、甘ちゃん」の声もあったように、いささか“詰め”には甘かった安倍だったが、「物事の行方の見定め」を重視した処世訓は一考に値する。
=敬称略=
■安倍晋太郎=通産大臣、外務大臣ほか党3役などを歴任。岳父に岸信介元首相、義理の叔父は佐藤栄作元首相。竹下登元首相、宮澤喜一元首相と並び、ニューリーダーの1人に数えられた。安倍晋三首相の父。
小林吉弥(こばやしきちや)
永田町取材歴46年のベテラン政治評論家。この間、佐藤栄作内閣以降の大物議員に多数接触する一方、抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書多数。