出川は1985年、横浜放送映画専門学院(現:日本映画学校)の演劇家科を卒業。その後、専門学生時代で同級生だったウッチャンナンチャンの内村光良と南原清隆、入江雅人らと「劇団SHA・LA・LA」を結成。自ら座長となり、チケットの販売、ギャラ交渉、スケジュール調整、経理など出川一人で管理していた。
89年には伝説の番組「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」に出演し、ダチョウ倶楽部と共に一躍「リアクション芸人」として大ブレイク。90年に「ウッチャンナンチャンンのやるならやらねば!」、95年には「笑っていいとも!」、98年には「ぐるぐるナインティナイン」など、人気バラエティ番組のレギュラーとして活躍。92年からスタートした「進め!電波少年」では「牛のゲップを吸い切りたい」「ヒクソングレイシーと闘いたい」など数々の身体を張った企画にチャレンジ。海外で番組オリジナルコンドームを配る企画「STOPエイズキャンペーン」では、配布先で外国人に襲われてしまうという事態もあった。
そして、「ロンドンハーツ」では、「出川哲郎 in モスクワ 元カノと密会ドッキリSP」で落とし穴に沈み、名シーンとして語り継がれるように。また、2004年には番組内で結婚を発表するなど、話題を提供し続けた。とにかく、数々の番組で身体を張り、出川が作った伝説は枚挙に暇がない。
最近では、“ポンコツ芸人”としても地位を確立。「ヤバいよ、ヤバいよ」「リアルガチ」などの迷言も健在で、芸能界で唯一無二のキャラとして、世間からも親しまれている。
22日、出川は自身ブログで、「24日のイッテQは、芸能生活30年記念出川哲朗アワード。なんと1時間まるまる出川哲朗特集。本当にありがたい事だ。そして夜中は、テレビ東京で初冠番組の出川哲朗のリアルガチがスタート。何とこの日は、3年前に亡くなった母ちゃんの命日。母ちゃんの命日に、芸能生活30年記念SPと冠番組がスタート。何か感慨深いものがある。母ちゃんが頑張れ! と言っている様にしか思えない。50年記念まで、鼻にザリガニを挟み続ける。俺は、そうしてゆく」と感謝の気持ちと意気込みを綴っていた。
出川がお笑い界に与えた影響は計り知れない。今後、出川を超える芸人は現れるのだろうか。