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遠い記憶 根岸競馬場の歴史(20)

 戦時中の緊迫の時局にもかかわらず、国内に戦火が及ぶまでの日本は競馬人気が過熱し、にぎわいを見せていた。そんなせいか、当時は「保て競馬の品位と秩序」「愛せよ競馬 忘るな公徳」「馬は兵器だ汚すな競馬」といった呼びかけ標語が並んだ。根岸競馬も例外ではなく、同競馬76年の歴史のなかで、最も大衆に愛され、隆盛を極めたのはこの昭和初期の約15年間であった。

 昭和の競馬ファンの多くは、市電終点から、根岸競馬場まで山元町(現・横浜市中区山元町)の一本道を行き来した。道路沿いの店々は、2階の居間までをお客に開放するほどにぎわった。競馬帰りの人の群れは二色に分かれ、景気のいい組は、山元町2丁目から右へ折れ、麦田(現・中区麦田町)に下りて、チャブ屋(外国人向けの休息所から発展した洋風花街)のある本牧へと流れてゆく。
 競馬場の秋の終わった後の様子だが、競馬のない普段の根岸周辺は、ひっそりと静まり返っていた。馬場の中のゴルフ場には、プレーを楽しむ人の姿が見られた。このゴルフ場のキャディにはすぐ近くの山元尋常高等小学校の高等科の子どもたちがよく駆り出された。9ホールひと周りで15〜20銭になり、子どもたちの格好のアルバイトだった。
 さて、根岸競馬の組閣人事では太平洋戦争勃発の直前に、場長のアイザックスが辞任することとなる。文献によると、その事由は「老齢ノタメ」とあるが、緊迫高まる対米英関係の反映で、さしもの功労者も引退を迫られる状況になった。
 このような中でも根岸競馬は、真珠湾攻撃まであと数カ月と迫る1941(昭和16)年9月に2日間、10月に5日間の日程で秋季競馬が行われた。
 ※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬

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