この反乱軍の象徴であったのは「神の子」天草四郎であった。元和7(1621)年に生まれたとされており、寛永15(1638)年に原城で玉砕するまで、波乱の人生を駆け抜けた。無論、このような青年の力だけで大勢の人間は束ねることは大変だ。背後に欧米の勢力がおり、クリスチャンの信仰心を利用して日本国内にキリスト教徒自治区を作ろうとしていたとも言われている。
天草四郎は、本名を「益田四郎時貞」といい、洗礼名を「ジェロニモ」、または「フランシスコ」と言った。何の変哲もない四郎が突如「神の子」として祀り上げられたのは、マルコス宣教師が国外に追放される際に奇妙な「預言」を残していたからだ。「今から25年後に神の子が出現し、弾圧に苦しむキリシタンたちを救う」というものであった。
それから約25年後の1637年6月頃、小西行長の元家臣たちがマルコス神父の預言を天草・島原の村々に言い回り「神の子」への待望論が拡大。聡明な四郎は「神の子」として認められ、一気にキリシタンの旗印に担ぎ上げられたのだ。
この一連の動きで怪しく思えるのは、小西行長の元家臣たちである。クリスチャンであったのは事実であろうが、わざわざ村々で神の子の預言を言って回るのは不可解だ。しかも、天草四朗の馬印は秀吉と同じく千成病単であり、暗に豊臣家ゆかりの人物であることを示している。また、薩摩の書物では天草四郎の事を「豊臣秀綱」という名前で記している。さらに、大阪夏の陣で破れた豊臣秀頼が真田幸村とともに薩摩に逃れたという噂がささやかれていた。つまり、当時天草四郎は秀吉の孫であり、豊臣家復興の旗印でもあったとも言われているのだ。
これは関ケ原で敗れた大名に仕えていた浪人たちの勢力を、自軍に引き入れるための小西家旧臣たちの戦略のようにも思えるが、天草四郎が豊臣秀頼のご落胤(らくいん)であり、豊臣家の嫡流(ちゃくりゅう)の血が流れているとしたら、徳川幕府があそこまで必死になったのも理解できる。
(山口敏太郎)