search
とじる
トップ > 社会 > 達人政治家の処世の極意 第十四回「青木幹雄」

達人政治家の処世の極意 第十四回「青木幹雄」

 「私しゃナニも分かりません。宜しくご指導を。ポストなどはとてもとても。あとで結構」

 ポストにギラギラ、オレがオレがの人物が出世したためしがないのが政界だが、これは一般社会でも当てはまる。逆の方が、“出世確率”は高いのである。
 参院議員だった青木幹雄元官房長官。参院当選3回は衆院当選の7、8回くらいに相当するが、小渕恵三内閣の官房長官として初の閣僚ポストに就いたのがこの期だったのだから、「ポスト望まず」は徹底していたということになる。
 官房長官辞任後も閣僚ポストなどには見向きもせず、参院議員会長として参院自民党はもとより参院野党への調整能力も発揮、長く“参院のドン”として政局にニラミを利かせたのだった。

 青木は裕福な島根県の網元の息子で、早稲田大学法学部に入学とともに、先の森元首相同様、雄弁会に入った。
 ここで雄弁会の先輩、同郷の竹下登(後の首相)に目をかけられ、竹下が衆院初当選をすると学生のまま竹下の秘書となった。その後、島根県議に転じ竹下の選挙区を守ったが、竹下が首相を目前に自民党幹事長になったとき、参院議員として国政に転じた。
 政界には、「参院を制する者が政権を制す」との言葉がある。予算、条約は衆院に“優先権”が与えられているが、一般の法案は参院での成立を待つ必要があり、参院がノーを出せば、やがて政権は行き詰まる。青木の調整能力に期待した竹下の炯眼が、青木を参院議員引っ張り出しということだった。一方で、青木という政治家は国会議員ならぜひ聞きたい高邁な理念、構想力に富んだ政策の披瀝を、一度として見せたことのない人物でもあったのである。

 では、なぜここまで登り詰めることができたのか。それが、表記の言葉に表われている。この言葉は、青木の口癖でもあった。青木をよく知る自民党元議員の、こんな証言がある。
 「人脈の広さ、情報通、硬軟自在の政治手法という青木の持ち味は、徹底した低姿勢が背景だ。常に、他人より一歩下がっている。仮にポッと出の若手議員と出くわしても、『あ、先生。今後とも宜しくご指導下さい』と、几帳面なお辞儀を欠かさない。若手議員などは、青木のバックに竹下登という大実力者が控えていることを知っている。その青木に、こう低姿勢でやられて悪い気のあろうハズがない」
 こうした敵を作らぬ人間関係の機微を押さえた手法で人間関係の輪を広げ、人心を掌握していった。気配り、根回しでは人後に落ちなかった竹下が、つくづく言っていた。「オレを超える“人たらし”は青木くらいだわナ」と。

 青木流の“人たらし”のエピソードは、はるかさかのぼって早大雄弁会当時にもある。
 筆者も雄弁会の末席にいたが、雄弁会の先輩からこんな話を聞いた。
 「青木さんがいた当時の早稲田は、ろくにメシも食えぬ貧乏学生がいっぱいいた。雄弁会に入ってきた者も同様だ。青木さんの親元は裕福だから仕送りも潤沢、学生結婚もしていた。カネがなくて腹を減らしている学生がいると、『オレの家に来い』と言う。行ってみると、テーブルの上にジャムパンなどの菓子パンが山盛りでのっている。メシも食わしてもらって、腹いっぱいになった学生は言うのだ。『青木先輩は“親分”だ。ずっと、幹事長でいてほしい。ボクは青木さんの幹事長を支持する』と」
 雄弁会の幹事長は会の資金を一手に握る雄弁会のトップ、最大の実力者である。雄弁会当時も必ずしも秀才としての評価はなかった青木だったが、この“親分性”で雄弁会を掌握していった。のちに“参院のドン”として君臨していた“人たらし”の手法と、そっくりそのままだったのである。

 今、かつて自民党本部が入居し、田中角栄や中曽根康弘などの歴代大物政治家が事務所を構えた国会近くの『砂防会館』が老朽化により建て替え計画が進んでいる。
 来年4月以降には取り壊す。青木の事務所も、ここにある。
 今、青木は議員事務所が残り少なくなったここを根城に、「ポスト安倍」ハト派首相誕生へ最後の情熱を傾けている。
 名誉も欲も押さえ込んだ“青木流”。磁石のように、人は引きつけられる。一般社会でも、一考に値する生き方と言えるのである。
=敬称略=

■青木幹雄=長く竹下登元首相の秘書を務め、島根県議会議員(5期)を経て、参議院議員(4期)。内閣官房長官(第64・65代)兼務で沖縄開発庁長官(第38・39代)、自由民主党参議院議員会長を歴任。

小林吉弥(こばやしきちや)
 永田町取材歴46年のベテラン政治評論家。この間、佐藤栄作内閣以降の大物議員に多数接触する一方、抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書多数。

社会→

 

特集

関連ニュース

ピックアップ

新着ニュース→

もっと見る→

社会→

もっと見る→

注目タグ