少数派でも、自らを信じてトップリーダーを目指して諦めることなく、ついにはその座にすわってしまった人物が、ロッキード事件で失脚した田中角栄の後の首相の三木武夫であった。
派閥は常に少数派だったが、陣笠代議士のころは「反官僚政治」を、自民党での後年は「政治の近代化」「反金権政治」を旗印にし、自らは「クリーン三木」を標榜、巧みに大派閥と連携しつつ生き残り、ついには首相の座にすわってしまったということだ。
その三木の異名は「バルカン政治家」。そのゆえんは第1次大戦当時、バルカン半島の小国群が右に左に揺れながらも、したたかに国の保全を図ってきたのに似ているということからであった。
なるほど、三木という男、タダ者ではなかった。闘争能力は極め付き、遊泳術の巧みさもまた並大抵ではなかった。常に“標的”にされた田中角栄は、「アイツはしぶとい。しかし、“芸”があるから生き残る」として天を仰ぎ、炯眼で鳴る田中は一流の言い回しで次のように続けたものである。
「三木をやり手の年増芸者とすれば、福田(赳夫・元首相)も大平(正芳・元首相)も女学生みたいなものだ。三木がプロなら、福田も大平もアマそのものだ。三木は太鼓、三味線の音がすれば、呼びもしないのに座敷に飛んでくる。年増芸者ながらトシも考えず、尻まで裾をはしょって舞台に上がり、客の前で踊ってみせる。“読み”は並みじゃないナ」と。時の政権との距離を絶妙に取り、損とにらんだらポンと閣僚辞任もやって見せた。もう一つの異名が「飛び降りの名人」だったのだ。
そのしたたかさの好例が、表題の言葉「男は勝つまで何度でも勝負する」であった。自民党総裁選ではまず佐藤栄作の3選、4選時に出馬してそれぞれ敗れ、昭和47年の田中角栄が福田赳夫に勝利した、いわゆる「角福戦争」でも名乗りを挙げたがわずか47票しか取れず、「角福」両者の決選投票を見るにとどまった。「男は…」は、この出馬時に出た言葉であった。
その上でタダ者でないゆえんは、事実上のこの「角福総裁選」で田中が勝つとすかさず、「金権体質」の声を挙げ、田中内閣が参院選で敗北すると入閣していた副総理をさっさと辞任、誰より機先を制することで国民の共感を得、存在感を見せつけたということであった。
やがて、その田中がロッキード事件を引き金として退陣後、三木のこれまでの執念は実ることになる。評判が地に堕ちた自民党再生のため、田中後継の「裁定」を任された椎名悦三郎副総裁は「清廉」イメージの三木を指名した。政界入りして苦節38年、この「バルカン政治家」はついに政権の座に就いたが、指名を受けた三木は言った。「青天の霹靂、予想だにしなかった」と。しかし、実は「青天の霹靂…」でも何でもなく、指名の2日前には椎名サイドからすでに耳打ちされていたことだった。まさに、田中角栄が天を仰いだしたたかぶりだったのだ。
その三木は一方で、「議会の子」といわれたように、終生、政治以外は知らぬ男であった。ために、私生活は世間知らずの「駄々っ子」そのものであった。そのエピソード証言は多々ある。
「三木の好物は、殻付きの落花生とミカンだった。食べ始めると、落花生は殻といわず皮といわず落としまくる。片付けるということを知らず、ズボンの膝あたりはいつもゴミだらけだった。ミカンは放っておけば10個でもペロリ。しかもむいた皮は放ったらかし、口に入れたものは片っ端からペッとやるからテーブルの上はいつも戦場のごとし」「チョッキのボタンは、段違いにかけることがしばしばだった。周りの者が『一番上のを間違えたからです』と指摘すると、三木は『一つしか間違わなかったのに、なぜ全部違ってしまったのか』と嘆いた」「どう娘を可愛がればいいのかも不器用そのものだった。娘が20歳のとき、『相撲を取るか』とやって逃げられたことがある」等々である。
したたかさとある種の幼児性を合わせ持った三木のこのしたたかさによる「少数派生き残り術」は、派閥抗争などに巻き込まれ少数派として悲哀を感じるサラリーマン諸君には、少なからず参考となる。キモは、「信念を貫け」ということである。必ずどこかで、光明が待ち受けていると信じることに他ならない。=敬称略=
■三木武夫=第66代内閣総理大臣。第1次、第2次田中角栄内閣の副総理、外務大臣(第95、96代)、通商産業大臣(第27代)、環境庁長官(第4代)などを歴任。いわゆる「三角大福」のうちの一人。
小林吉弥(こばやしきちや)
永田町取材歴46年のベテラン政治評論家。この間、佐藤栄作内閣以降の大物議員に多数接触する一方、抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書多数。