東京拘置所を出た田中は、その足で目白の自宅に戻った。「親分出所」を待っていたのは、田中派幹部の面々であった。田中の姿を見た橋本龍太郎(後に首相)などは、あたりはばからず涙をポロポロと流した。また、田中自身はそれから間もなく、元神楽坂芸者の愛人宅に足を運び、家に上がるや一点を見詰めて、悔しそうにこう口にしたものであった。「米国の差しガネで三木(武夫首相)にやられたッ」と。
ちなみに、米国の「差しガネ」とは、田中が米国の石油メジャーを尻目にわが国の資源確保のために中東などからの新しい石油ルートを模索したこと、もう一つは、米国の意向に逆らう形で日本の今後の市場拡大も含め、中国との国交正常化に走ったことを指すようであった。後に、こうしたことは「米国の虎の尾を踏んだから」との見方も出、なぜロッキード事件が発生したかの見方の一つになった。ただし、今もって事件の本質は「藪の中」となっているのである。また、「三木にやられた」は、三木が田中逮捕の事実を事前に知っていながら、これを少しも抑えようとしなかった、すなわちあまりに「惻隠の情」がないとの考え方を指している。
東京拘置所独房内での、田中のこんなエピソードがある。某日の献立は、〈朝食〉午前7時20分…豆腐とキャベツの味噌汁・大和煮・米と麦半々のドンブリ飯(昼・夕食同じ)、〈昼食〉午前11時30分…マーボー豆腐・サンマの塩焼き大根おろし付き、〈夕食〉午後4時20分…筑前煮・おからの炒めもの・プリンスメロン。
拘置所当局のコメントは「食事をすべて食べたかどうかについては個人の名誉に関することなので一切申し上げられない」というものだったが、保釈後しばらくたって田中が田中派幹部の1人に語ったところでは、以下のようなものであった。
「しょっぱいもの大好きの田中先生としては、こうしたメニューではさすがに食欲は湧かず残したことも多かったようだ。『だいぶスリムになった』と言っていた。一方で、独房は真夏でもクーラーなし、汗っかきで鳴った先生いわく『あまり暑いので、アソコをウチワであおいでおった』と言っていましたナ」
一方、政局的には、出所した田中の“逆襲”が直ちに始まった。自民党内では田中派が公然と「三木退陣」を要求、再び“三木おろし”の気運が盛り上がってきた。これに「ポスト三木」を窺う福田赳夫、大平正芳の両派、あるいは中間派もこれに乗り、「人心を一新して挙党体制を確立する」ことを名目に「挙党体制確立協議会」が立ち上げられ、数の力をバックに三木に退陣を迫ったものであった。
対して、したたかさで鳴る三木は衆院の解散をチラつかせながら応戦、一歩も引かなかった。しかし、結局は解散権は行使できず、戦後唯一の任期満了による総選挙を迎えることになったものであった。結果、この年の暮れに行われた総選挙は世論の集中砲火を浴びて自民党は大苦戦、結党以来初めて過半数を割る事態となったのだった。
ここに至ってさすがの三木も敗北を認めざるを得ず、責任を取る形で首相辞任を余儀なくされた。田中としては、“宿敵”三木のクビを取った形であった。後継首相には、「三木おろし」工作を推進した“論功行賞”的意味合い、田中の「盟友」大平ではあまりに露骨ということもあり、田中も政敵福田の就任をのまざるを得なかったということだった。
また、田中にとってまさに窮地であった先の総選挙では「10万票を割るかも知れない」との見方もあったが、フタを開けると〈旧新潟3区〉で16万8千票を獲得してトップ当選、その底力を見せつけたのだった。
一方、田中に対する東京地裁の公判は翌年(昭和52年)1月27日の第1回公判から毎週1回開かれ、回数にして実に191回も重ねられた。その後、6年余を経た58年10月12日、田中は懲役4年・追徴金5億円の有罪判決を受けることになった(判決5日後に保釈金2億円で再度保釈)。首相経験者が実刑有罪という一審判決の激震を受けて国会はいよいよ紛糾、改めて衆院を解散して「国民に信を問う」ことを余儀なくされた。いわゆる「ロッキード選挙」への突入であった。
田中はその一審判決に対し、直ちに控訴手続きを取るとともに、悔しさをにじませ次のような「田中所感」を発表したものであった。
「地裁判決は極めて遺憾である。(中略)私は根拠のない話や無責任な論評によって真実の主張を阻もうとする風潮を憂える。わが国の民主主義を護り、再び政治の暗黒を招かないためにも、一歩も引くことなく前進を続けるつもりである」
田中は有罪判決にもなお強気、総選挙では驚異の票を獲得して、以後しばし、「闇将軍」「キングメーカー」の名のもとに政局を牛耳続けることになるのである。
(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。