武田vs織田・徳川連合軍が戦った激戦地の一つ、竹広地区。現在の愛知県新城市設楽原資料館があるあたりです。この場所で毎年8月15日のお盆の夜に『ヤーレモッセモッセモセ…』の声が響き渡ります。
1575年に起こった長篠の戦い。戦いが終わると、この竹広の村人は戦没者を大・小ふたつの塚(信玄塚)に手厚く葬りました。しかしその夏、塚から大量の蜂が発生して、人馬に害を与えたので、村人は戦没者の亡霊と思い、霊たちを慰めるため松明を燃やして塚で供養したのが「火おんどり」の歴史のはじまり。
太陽が燦々と照り、何もしなくても額から汗が落ちてくる暑さとなったこの日、「火おんどり」が始まる5時間以上前からすでに数十台のカメラの三脚がズラリと並び、場所取りのため、たくさんの人がスタンバイしていました。実はこのお祭り、歴史好きな人はもちろんですが、武田氏のファンにも、そして「躍動的な写真が撮れる」とあってカメラマンの間でも有名なのです。
日が暮れると盆踊りが始まり、夜8時頃になると法被に鉢巻、猿股姿の参加者は、順番に連吾川に清めに行きます。今回初めてお清めに同行させていただきましたが、真っ暗な道も地元の方は手馴れたもので、川に着くと一列になって、ゆっくりと太ももあたりまで水に浸かり、上から塩をまいてもらい体を清めます。そして塚の麓の峯田氏宅に集まり、峯田家主の起こした浄火を「お種」と呼ばれる3本の松明に移し出発。「火おんどり坂」と呼ばれる昔からある狭い草むらの道をゆっくりと登っていきます。
途中、山県昌景のお墓の前を通り、坂上で準備されていた60〜70本の巨大なタイに火を点じ、信玄塚を目指します。この「タイ」というのは、スノコに編んだヨシの中にシダを詰め、縄でしめて作られた松明のこと。大きなものは高さ3m、周囲2m以上もあります。暗闇の中でこの巨大なタイに次々と火がついていき、笛と鉦の音に合わせて炎がゆらゆらと燃え上がる光景は、まさに別世界にタイムスリップしたようでした。
そしてこの炎が燃え上がるタイを持った行列は、ゆっくりと塚を3回まわり、盆踊りが行われていた塚の隣の広場で円になっていきます。太鼓や笛のテンポが早くなったのを合図に、一斉にタイを袈裟十字に振りかざし、『ヤーレモッセ…』と唱えながら踊りだします。
余裕の年配の方は、大きくタイを振り回して観客やカメラマンにサービスショットを見せたり、若い青年が一生懸命必死になって大きなタイを振り回すと、自然と拍手が沸き起こり、見ているうちに「火おんどり」の独特の世界に引き込まれてしまいます。
この地区では小さな子供も、体に合わせた小さなタイを怖がることなく持って参加しています。この子供たちが大きくなったら、もっと太くて大きなタイを振り回し、こうやって伝統が守り継がれていくのでしょうね。400年以上も絶えることなく続けられている素晴らしい伝統芸能だとつくづく思いました。
タイが持っていられないほどの長さになったら、地面に放り出し、すべてのタイの火が消えて、「火おんどり」の幕が下ろされます。炎が小さくなっていくのを見ると、なんとも切なく寂しい気分にもなりますが、これこそが、また火まつりのいいところでもあるのかもしれませんね。
(「お城戦国ライター」Asami 山口敏太郎事務所)
参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou