当時の浜田市長が競輪開催に踏み切り、昭和23年11月に第一回の開催を敢行。海のものとも山のものともつかない競輪というしろものだった。しかも、当時、毛嫌いされたギャンブルである。法律にも違反する。ところが、便利な法律があった。戦災都市復興臨時措置法である。
このいささか超法規的な解釈のもとに当時、日本を占領していた連合軍最高司令部(GHQ)の許可の下に開催された。
娯楽というより今でいうイベントに飢えていた大衆は、小倉市の不安を一掃して競輪場に詰め寄せた。車券は1枚100円。物価を見れば、もりそばが一枚15円だった。庶民にはなかなか買える金額ではなかったろう。なにせ娯楽のない時代だ。車券を買わずに自転車競技のお祭りを見るような感覚で、入場者は詰め掛けた。
競輪祭はこれを記念して毎年11月に行われていた。今は開催の都合で1月に行われているが、1月の競輪祭はなんともなじまない。
競輪グランプリが始まるまでは、年の締めは競輪祭で、場外も電話投票もないから、全国の競輪ファンは小倉に注目し、九州だけでなく全国からファンを集めた。小倉のホテルは競輪ファンの予約でうまり、なかなか部屋が取れないこともあった。
初めて小倉を取材で訪れた時は、夜行寝台特急の「みずほ」とか「朝風」が便利だった。夕方、5時か6時に東京駅を出る寝台特急は朝10時ころに小倉駅に着く。1レースの開催時間には十分に間にあうのである。
昭和40年ころだったから小倉競輪場はドームではなく、しかも500バンクを400バンクに改装中だった。
バンクとスタンドは工事の関係で離れていた。記者席からはレースがよく見えない。最終回なんかは3コーナーから4コーナーは見えないから、展開がまるで違う。「ええっ?」と思うことがしばしばだった。
選手も成績の悪い選手は3日で「おかえり」になる。宿舎や控え室も今から比べるとひどいものだった。
当時は写真資料もなかったし、カメラマンを連れて行くことも出来ない。片端から自分で写真を撮った。食堂でレンズを向けた選手からは冷やかされたこともあった。向こうも珍しいから協力的だったし、顔を覚えてもらったりして、その後の取材に役だった。小倉はふぐのうまい季節で、なんとも楽しい小倉競輪祭の思い出である。