私を「くんくん」と呼ぶのは、六本木のM嬢(22)である。M嬢が19歳の時に歌舞伎町で知り合ったが、その際につけられた「あだ名」である。
「忙しいと言えば忙しいよ。同伴してってこと?」
「もう、そんな風に言わないでよ」
M嬢との電話はいつもこんな風に始まる。もうお互いの距離感が決まってしまっているかのようだ。知り合ってから3年、近づいては離れ、そしてまた近づいての繰り返しなのだ。だからなのか、電話があってもお茶だけ飲んで、お店には行かないことも何度もある。今夜もそんな気がしたのだが、なぜか、私から店に行こうと言い出す。
「今夜なら空いてるよ」
「え? 珍しくない?」
どうしてM嬢と飲みたくなったのだろうか。自分でもわからないが、久しぶりに会いたいという衝動に駆られたことはたしかだ。
「じゃあ、ご飯食べる? どこがいいかな? この前、お客さんに、『とろろ鍋を食べてきた』と聞いて、どこに行ってみたくなったの。そこでいい?」
というので、地下鉄の乃木坂駅付近で待ち合わせをすることになる。そういえば、M嬢が電話で「前髪をパッツンにしてきた」と言っていたっけ。22歳のわりには常に大人に見えるのだが、前髪をそろえる「パッツン」にする、ということはどんなイメージになるのだろう、と思っていた。
タクシーから降りた彼女を見ると、本当に「パッツン」で、いつもよりも5歳くらい若く見えた(いつもは、何歳に見えているのか? というのは内緒です)。
「前髪、似合ってるよ」
「ホント。人に見せるのは、くんくん、初めてだよ」
「あれ、電話で、『今日、先輩とお昼ご飯を食べた』って言ってなかった? ということは2人目じゃない?」
「うーん、まあ。でも、男の人には、ってことで(笑)」
と笑顔でごまかされてしまう。食事後、お店に行ったときに、M嬢にこう言われる。
「今夜、くんくん、どうして素直だったの? いつもなら来ないのに」
「来ないと思って、電話してんの?」
「うん。どうせいつも来ないし。ただ、会いたいなって思ったり、話したいな、って思ったりするから電話してんの」
「そうなのか。でも、ほら、くんくん、って犬のイメージでしょ? ペットの犬だよね? ご主人様の言う事をたまには聴かないとだめじゃない?」
「なんかあったの?」
別に何かあったわけではない。すべては会話の流れだったり、M嬢との人間関係だったり、お金の問題だったりする。それにタイミングや感情も、お店に行く動機としては重要かもしれない。たまたま、そのときに行きたいと思っただけだ。
そして、M嬢はいろんなことをいつも話してくれる。この日のテーマも、愛人だった。なぜ、愛人にならなかったのかといった話だった。でも話を聞いていると、相手は愛人にしようとした、というよりは、マジ恋愛の相手として口説いているのでは? と思ったりもした。
「あ、そうかもしれない。いやー、だったら無理でしょ」
「じゃあ、無理じゃない相手って、どんな?」
「わかんないな。言われてみないと」
「そうか。私はすでに3回もフラレているしな…」
「え? なにそれ?」
「もう、3回も告白してるじゃん?」
「聞いてない、聞いてない」
M嬢は、私の告白は冗談だと思っているのか、単純に会話を聞いていないのか。私がM嬢に告白したことを「知らない」という。拍子抜けをするのは、こっちのほうである。ただ、M嬢が当てはまるかどうかはわからないが、一般論として、キャバ嬢は、客の告白をいかにかわすかも仕事上のテクニックとして重要な要素だ。
「かわすとかないし。私、駆け引き、下手なんだからね。上手だったら、何人も愛人いるでしょ?」
M嬢の言っていることをどこまで信用したらよいのか。そう思ってしまう時点で、こちらが駆け引きで負けているのかもしれない。
「じゃあ、今夜は口説かないの?」
「店で口説いても嘘っぽでしょ?」
そういうと、M嬢は満面の笑みをしながら、
「うん。嘘っぽい」
といって、お酒を口にした。
<プロフィール>
渋井哲也(しぶい てつや)フリーライター。ノンフィクション作家。栃木県生まれ。若者の生きづらさ(自殺、自傷、依存など)をテーマに取材するほか、ケータイ・ネット利用、教育、サブカルチャー、性、風俗、キャバクラなどに関心を持つ。近刊に「実録・闇サイト事件簿」(幻冬舎新書)や「解決!学校クレーム “理不尽”保護者の実態と対応実践」(河出書房新社)。他に、「明日、自殺しませんか 男女7人ネット心中」(幻冬舎文庫)、「ウェブ恋愛」(ちくま新書)、「学校裏サイト」(晋遊舎新書)など。
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