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戦後70年特別読み物 「英霊たちの“墓”を引き揚げないでくれ!」 戦艦武蔵 元乗組員たちの悲痛な叫び(2)

 大本営は1944年10月18日、『捷一号作戦』を発令した。目的はアメリカ軍の進攻阻止。死守すべきマリアナ諸島のサイパン守備隊が玉砕し、絶対国防圏の一角が崩れたことで危機感を強めた海軍が、フィリピン・スルアン島に上陸を開始したマッカーサー将軍の前進を阻止するため、栗田健男中将率いる第二艦隊などに出撃を命じた。
 栗田艦隊の第一遊撃隊には大和、武蔵、金剛など約40隻、志摩清英中将が指揮する第二遊撃隊には10隻。さらに小沢治三郎中将が指揮を執る千代田、瑞鳳など空母4隻と13隻の艦船でレイテ島に向かい、総勢80隻余りの艦隊が、“ブル”の異名をとるハルゼー大将率いる総勢270隻余の大艦隊に一か八かの決戦を仕掛けた。

 10月22日午前8時、栗田艦隊長官の栗田司令官が乗艦する愛宕が先陣を切ってブルネイ湾を発進した。同艦隊に先んじて味方の潜水艦が露払いに出撃するものの、一歩湾外に出れば敵の潜水艦が待ち構えている。これをかわすため艦隊はジグザグに進行する“之字型航法”をとった。
 しかし、フィリピン諸島は大小の島が点在し、敵潜水艦から魚雷攻撃を受ける危険性も高かった。案の定、23日早朝6時30分、パラワン島を通過中の愛宕が魚雷4本をくらってあえなく撃沈。さらに巡洋艦高雄や摩耶も相次いで魚雷をぶち込まれ、高雄は大破、摩耶は船体が真っ二つになって艦長ともども海没する。
 愛宕海没後、大和に移乗した栗田長官は大和を旗艦として指揮を執った。すでに3艦の兵員約700名が戦死している。栗田長官は全艦に対潜警戒を発令し、中根二等兵曹も武蔵の副砲に張り付いて洋上に目を凝らした。ところが肝心の見張り兵は流木を敵の潜望鏡あるいは魚雷としばしば誤認し、いざというときには見逃す杜撰さで、いたずらに犠牲を増やしてしまった。

 僚艦の撃沈で前途多難を誰もが思った。事実、レイテ湾に接近するにつれて栗田艦隊は潜水艦だけでなく空襲も警戒し、空と海両面の防備を固める。そして10月24日、武蔵の命運を決するときがきた。午前9時30分、40数機の大編隊が第一波攻撃に来襲。筑摩、金剛が砲火を浴び、ついにレイテ沖海戦の口火が切られた。
 武蔵もここで初めて46センチ主砲が火を噴いた。弾の重さは普通自動車並みの約1.4トン、射程距離は約40キロメートル。はるか洋上の敵艦隊が捕捉でき、威力たるや想像を絶するものがある。ところがレイテ沖海戦で発射したのは58発にすぎず、期待ほどの効力は示せなかった。

 艦隊決戦ならともかく、短時間で接近し、自在に旋回する航空機にはまったく無能だった。第一波攻撃で早くも武蔵は魚雷1本が右舷に命中。続いて午後12時6分、第二波来襲。またしても直撃弾5発、魚雷3本を被弾する。
 火力は粉砕され、速度も低下し、犠牲者も続出。血だるまになった海兵たちが艦橋から甲板にバラバラと落下する。そのため船体がローリングするたび死体も左右にごろごろと転げ回る…。甲板は血のりと靴底の跡で赤黒く染まった。

 測的班の中根二等兵曹は被弾にもめげず副砲に指示を飛ばした。測的とは、敵との距離、速度、針路などを測定し、砲手に指示を出す要員だ。
 「あれ撃て、これ撃てと指示するのが役目だが、1機や2機ならともかく、大編隊で来られてはそうもいかない。だからもう適当なものでした」(中根氏)
 それでも副砲は小回りが利くせいか沈没するまでに計203発を発射している。とはいえ、勘と経験だけでは正確な測定など無理。まして図体のでかさがかえって災いし、武蔵は集中攻撃のマトになってしまった。

 対空防御の不備を武蔵艦長の猪口敏平中将は遺書の中でこう指摘している。
 「本海戦に於いて申し訳なきは対空射撃の威力を充分発揮し得ざりしこと(略)機銃はもう少し威力を大にせねばならぬと思う」
 これはまさに大艦巨砲を暗に批判するものだ。

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