直ちに大規模な捜索活動が始まったものの、手がかりひとつ見つからないまま、時間が過ぎていった。首相の失踪を受け、当時の政権与党は早くも月曜から後継の人選に着手したほか、翌週には首相の「死亡推定声明」が政府から出され、政治空白を最小限に留めたのであった。
だが、後述するように当時のオーストラリアを取り巻く国際情勢は政治空白を許さない緊張関係があり、国内情勢も決して穏やかとはいえなかったと言っても、政府や与党の動きはいささか性急に過ぎるように感じた人も少なくなく、その中には「首相の失踪があらかじめ予定されていた」かのように受け止める人もいたのである。
まず、当時のオーストラリアはベトナムでの戦争に数千人規模の部隊を派遣し始めており、また北に隣接するインドネシアでは親中派政権がクーデターで倒れ、親米政権が成立するなど、重大な国際問題を抱えていた。さらに、ホルト政権は与党を巻き込んだスキャンダルも取り沙汰されており、年明けには波乱含みの政局が予想されていた。
こういった内外の状況から、ある大胆な仮説がささやかれるようになっていた。
ひとつは、ホルト首相は失跡したかのように見せかけて沖合のオーストラリア海軍潜水艦と合流し、メディアの監視が届かない場所で愛人と第二の人生を歩んでいる、あるいは政治情勢の変化を待っているという仮説であり、もうひとつはより大胆に中国の潜水艦が拉致したというものであった。
当時の中国は政権中枢から追われた毛沢東が巻き返しをはかった文化大革命と、それにともなう社会的混乱状態のただ中にあり、事実上の鎖国状態にあったばかりか、資本主義に対する過激かつ敵対的な主張を世界に広めようとしていた。そのため、中国の勢力圏を脅かすベトナムへの派兵や、インドネシアの親中派政権を倒した親米軍事政権との関係強化を図るオーストラリアに対する感情は、相当に厳しかったと想像されている。
このような背景から、ホルト首相は政治的陰謀やテロの渦中に置かれていると、そのように考えた人々も少なくなかったのである。
(続く)