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【幻の兵器】回転翼を備えた「カ号観測機」は日本陸軍の組織的な病根の深さでほとんど活躍できず

 砲兵の重要な役割に、観測射撃という戦術がある。観測射撃とは、射撃を実施する砲兵自身が直接目標を確認、照準することなく、あらかじめ任意の地点に進出していた観測兵が目標を確認、砲兵を指示誘導して攻撃する方法で、間接射撃とも呼ばれる。もちろん、砲兵は敵に姿を見せることなく射撃を行うため、原理的には反撃を受けることなく一方的に射撃を加えることが可能となる。

 ただし、観測射撃を行うためには観測兵が目標を確認する必要があり、当然ながら観測兵には可能な限り広い視界と大きな視程を確保することが要求された。そのため、観測兵は戦場においてもっとも標高が高く、遮蔽物の少ない地点を占めようと試みるわけだが、究極的には目標上空から観測することが理想とされた。既に19世紀末には水素気球が軍事利用されており、気球に観測兵を載せて空高く浮遊させたのである。

 気球による観測は砲撃の命中精度をいちじるしく向上させ、第一次世界大戦において全盛期を迎えた。だが、気球は航空機による攻撃に対して全く無力で、周辺に対空火器を配置したり戦闘機の護衛をつけてもなお、敵航空機によって大きな損害を出している。その他、気球で観測するためにはかさばる気嚢と危険な水素ガスを取り扱わねばならず、運用性という点では多くの問題を抱えていた。しかも、航空機による観測が一般的に行われるようになったため、第一次世界大戦後は気球による観測がすっかり時代遅れになった。

 日本陸軍も早くから観測用気球に注目しており、日露戦争時の旅順攻略戦や第一次世界大戦の青島要塞攻略戦において気球を使用するなど研究に務めていた。だが、日露戦争では気球が効果を発揮しなかった上、第一次世界大戦以降は陸軍航空の中心が飛行機へ移ったことから、飛行連隊が1925年に設立された後は気球に関する研究も下火になった。もちろん、これはこれで時代の流れに即した軍の近代化といえるのだが、砲兵の側には気球の有効性を認める人々が多数存在しており、昭和初期に気球隊は砲兵の管轄となって、気球連隊が1936年に創設されている。

 紆余曲折はあったものの、ともあれ日本陸軍砲兵は独自の航空観測隊を指揮下に収め、部隊の運用方法や新型観測機材の研究に着手した。そして1938年には新型観測気球を制式化するとともに(九八式気球)、観測用オートジャイロの研究開発を開始している。観測精度の問題から、着弾観測を実施する際には静止していることが望ましく、砲兵にしてみれば飛行機よりも気球の方がはるかに安定した観測拠点となりえたのである。

 オートジャイロとは推進用エンジンとは別個に無動力の回転翼(例外もある)を備えた航空機で、前進することによって回転翼が風圧で回転しはじめ、やがては回転翼の生み出す揚力によって飛翔するという仕組みだ。動力回転翼を備えているヘリコプターとは異なり、垂直上昇及び下降、空中停止はできないものの、離着陸に必要な空き地が固定翼機に比べて非常に小さく、空中における機動性にも富んでいる。実際、向かい風状態ではほとんど空中に静止することも可能で、またヘリコプターと異なって操縦感覚も固定翼機に近いという利点があった。

 砲兵の研究に先立ち、日本陸軍は学芸技術奨励寄付金によって1933年にアメリカケレット社のK-3オートジャイロを2機入手し、研究していた。ただし、研究中の事故で全て失われてしまい、オートジャイロ研究は1939年に陸軍航空本部が同じケレット社からKD-1Aを輸入するまで途絶える。とはいえ、そのKD-1Aも翌40年には破損してしまったため、破損機体は砲兵隊へ譲渡された。

 砲兵隊は破壊された機体の修理を萱場製作所(現KYB)へ依頼するとともに、同社でのコピー生産を決意した。損傷機の修理(再生)は比較的順調に進み、発注からわずか半年ほどの1941年には完成、実用審査の上で翌42年にはカ号観測機として採用された。また、カ号という名称は観測の略が由来とされている。カ号には空冷倒立エンジン装備の一型と空冷エンジン装備の二型があるものの、空冷倒立エンジンには問題が多く、もっぱら二型が生産された。量産が始まった1943年から敗戦までには合計98機が完成したとされるが、引渡し前に空爆で失われたり、エンジンが間に合わなかった機体も少なくないため、部隊へ配備されたのは30機程度とされている。

 また、たとえオートジャイロといっても防御火器があるわけでもなく、また備えていたとしても空中防御力は気球と同レベルであり、敵機に発見されたらひとたまりもなく撃墜されてしまうことは明らかだった。実際、数がそろった1944年の段階では観測機を運用する戦場もなく、日本本土で訓練や研究に使われていたようである。ところが、戦局の悪化と共に潜水艦による輸送船の被害が急増し、日本陸軍も対潜護衛艦艇を整備する必要に迫られていたため、陸軍特殊船(舟艇母船)として飛行甲板を備えていたあきつ丸で運用することが考えられた。ちょうどその頃、カ号機と同様に滑走距離の極めて短い三式連絡機が実用段階に至っており、これらの機体ならば飛行甲板が小さくて航空設備の貧弱なあきつ丸でも発着艦が可能とされたのだ。

 試験の結果、あきつ丸には三式連絡機を搭載することとなったが、カ号機は日本本土沿岸の対馬海峡で対潜任務に着くこととなった。とはいえ、対潜作戦においてカ号機がどの程度の効果を発揮したのかは不明確であり、現在でも兵器としての評価は極めて困難である。ただし、カ号機は日本陸軍の抱えていた組織的な病根の深さを示す存在として、兵器としての能力以前に極めて大きな問題を抱えていたといえるだろう。

 カ号機の開発が始まった1938年には、陸軍航空本部が地上軍に密接して「弾着観測」や偵察、連絡等を主任務とした九八式直協偵察機の原型機が完成しており、わざわざ砲兵独自の機材を開発する意味があったかどうか疑問なのである。おまけに、砲兵隊はカ号機の開発と並行してテ号という飛行機を開発しており、そればかりか、ほぼ同時期に航空本部は前述の三式連絡機を開発しているのだ。あまつさえ、ライセンス生産を見越してフィーゼラーFi156観測連絡機をドイツから輸入しているのだから、観測機に対する開発意欲はいささか常軌を逸していたとさえいえる。

 つまり、1941年の段階で日本陸軍は砲兵がカ号とテ号の開発を進め、航空本部が三式観測機の開発とドイツからの輸入を試みるという、同一目的の兵器が四種類も乱立していたことになる。しかも、わずか三年前に観測機が開発されていたというのに、である。そもそも、砲兵が独自の観測機を開発、整備すること自体がいささかぜいたくといえ、航空隊と緊密に連携を取って作戦時に協調するのが本来の姿ではなかったろうか。 (隔週日曜日に掲載)

■カ号観測機データ
ローター折畳時全長:6.680m(一型)
全幅:3.02m
全幅:10.60m(停止したローター含む)
全高:3.10m
ローター回転直径:12.2m
自重:750kg
全備重量:1,170kg
エンジン: 一型:神戸製鋼所製 アルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒 240 hp/2000 rpm(離昇出力) 200 hp(公称出力) 二型:神戸製鋼所製 ジャコブス L-4MA-7 空冷星型7気筒 245 hp/2200 rpm(離昇出力)
速度:165km/h
航続距離:360km
武装:60kg爆雷×1
乗員:2名(爆装時は1名)

*記事一部修正しました

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