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戦後70年特別読物 天皇・皇后両陛下パラオ共和国ご訪問 生還日本兵の証言(山口永元少佐、永井敬司元軍曹)「ペリリュー島 地獄の持久戦」(3)

 およそ70日間にわたる組織的戦闘は、これで終結した。ところが味方の玉砕を知らず、なおも徹底抗戦を続ける部隊があった。
 山口氏や永井氏らの残存兵である。
 「味方が玉砕した当時、われわれは80人ほど生き残っていました。そこには海軍の兵士も交じっていましたが、昼間は洞窟にこもり、夜は夜襲を掛けるという、まさにゲリラ戦の繰り返しでした」(永井氏)

 武器弾薬の不足は「水戸っぽ(茨城弁で水戸の人)の負けじ魂で補った」という山口氏ら残存兵は、その後小隊単位で分散行動を取り、少尉だった山口氏が小隊の指揮を執った。しかし、夜襲や米軍の掃討作戦で戦死が相次ぎ、翌'45年春ごろには34名の山口隊だけが残った。そしてこのころから残存兵は、戦闘モードからいかに生き延びるかのサバイバルモードに転換する。
 「戦闘も散発的となり、島の守備から物資調達が目的になった。食糧、燃料、衣料、紙と鉛筆、タバコ…。ほとんど米軍からかっぱらったものでわれわれは生き延びたんです」
 永井氏は、米軍の豊富な食糧をうらめしく見ていた。わずかな乾パンと金平糖で飢えをしのぐ日本兵に対し、米軍は食糧を積んだ戦車が戦場を行き来しながら兵士に直接配り、しかもコーヒーやジュースと一緒に食べている場面をいく度も目にしていたからだ。

 山口氏らはいよいよ敵方の駐屯地に目を付けた。そこにはさまざまな物資が山積みされているのだ。
 「缶詰、タバコ、マッチ、パン…。段ボール箱ごと、ごっそり頂戴するのです」
 衣服も靴もボロボロだった。何しろ3年以上も着たまま。いかに常夏の島とはいえ裸に裸足ではいられない。物干し場からも衣服を奪い、身にまとった。そのため、残存兵は頭からつま先までそっくり米軍仕立てに変わった。
 髪も伸びればヒゲも伸びる。それは、割ったビンの薄い部分を刃にして切った。幸い兵士の中に本職の散髪屋がいた。さらに元旋盤工の海軍兵士もいたからスプリングで日本刀、あるいは米軍の小銃を改造するなどお手のものだった。

 残存兵にすればゴミ捨て場も宝の山。そこには新聞や雑誌などもあった。道を歩けば投げ捨てたタバコがいたるところにある。時には口紅の付いたタバコを発見することがあった。間接キッスなどと言ってうまそうにふかすから洞窟内はたちまち大騒ぎ。何しろ彼らは20代。異性への関心が旺盛な年代だ。
 「映画も見ていましたよ。週末になると彼らは野外映画を楽しむので、私らも物陰から見ていました。もちろん洋画ですけどね」

 山口氏らは味方の玉砕も、まして日本の無条件降伏も知らずに、洞窟内で潜伏生活を続けた。しかし、ゴミ捨て場で拾った新聞から日本の敗戦を感じてはいた。英語に精通した大学出身の兵士もいたからだ。
 敗戦を伝える米軍の説得工作も始まっていた。残存兵の行動が大胆になるにつれ、島民との遭遇が当然増す。そのため、島民から日本兵の潜伏が米軍に伝わり、説得が始まったのだ。
 山口氏らは、それでも半信半疑だった。グアムの戦犯収容所で捕虜となっていた澄川道男元海軍少将(第4艦隊参謀長)が派遣され、説得に当たる。けれど、やはり応答はない。そこで窮余の策として、肉親の手紙、敗戦を認めた日本政府の公式文書などを彼らに見せる。
 こうしてようやく1947年4月23日、山口、永井両氏他34名の日本軍残存兵は米軍に帰順した。

 「われわれは決して捕虜じゃない。捕虜とは戦闘中に捕らわれたものをいう。私らは捕まったのではなく、説得に応じて帰順したからです」
 永井氏は現在もこのように、2年半のペリリュー島潜伏から生還した元陸軍軍曹としての矜持を示すのであった。

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