6月13日、大阪・浪商(現大体大浪商)高のエースとして夏の甲子園で優勝し、プロ野球東映(現日本ハム)でも活躍した尾崎行雄(おざき・ゆきお)さんが肺がんのため都内の病院で逝去。68歳だった。
剛速球を武器に『怪童』と呼ばれ、プロ1年目の1962年に20勝を挙げ新人王に。そして'65年には27勝で最多勝のタイトルを獲得した。16歳で甲子園のマウンドを踏んだころから、変則投法のロッキング・モーションから繰り出す剛速球は、計測すれば優に“160キロ”を超えていたとの伝説を持つ大投手だった。
だが、『怪童』として大きな脚光を浴びたものの、尾崎さんの野球人生は長く続かなかった。豪速球で肩を酷使した影響もあり、6年目の'67年夏に右肩を故障。翌'68年以降の6年間でわずか3勝しかできず、29歳の若さで引退した。
その後は、東京・台東区内で欧州料理レストランを経営。監督やコーチなどで再びユニホームを着ることはなく、評論家などの依頼もすべて断るなど、球界とは距離を置く生活をしていた。そんな尾崎さんも時間さえあれば「楽しい野球がしたい」と地元で少年野球を熱心に指導し、自ら草野球のマウンドに上がることもあったという。
昭和の時代に異彩を放った『怪童・尾崎』の太く短かった野球人生−−。そんな中の“球跡”から、いくつかの秘話を拾い上げてみよう。
《甲子園での“名勝負”》
『尾崎』の名前とともに持ち前の剛速球に注目が集まったのは、昭和35年('60年)夏である。高校1年生ながら浪商のエースとして甲子園に出場。柴田勲=元巨人=をエースとする強豪、法政二高(神奈川)と対戦した。同校とはこの試合を含め3季連続での激突だった。
初対決は0-4で敗退。翌春のセンバツ大会でも準々決勝で対戦したが、柴田にまたもや0-3の完封負けを喫した。
そして3度目の対決が昭和36年の夏の大会で、甲子園準決勝という絶好の大舞台。延長11回の激闘の末、浪商が法政二高を4-2でついに破ったのだ。決勝の桐蔭高を1-0で下し、尾崎は完封で全国制覇を成し遂げた。
尾崎と甲子園で3度対決した本誌評論家でもある柴田勲氏に、当時の“名勝負”を振り返ってもらった。
「あのときの尾崎君の球は間違いなく速かった。僕も130〜140キロくらい投げ、速球派といわれたが、その比ではなかった。球種は僕も同じで、速球に“ションベンカーブ”と少なかったが、彼はあの体を揺らし、反動をつけて投げるロッキング・モーションからの剛速球。あれで十分。他の球種はいらない。打つ方では、それでも5番打者として3試合で4、5本は打った記憶があります。しかし、何と言っても3度目の対決で、逆に尾崎君に三遊間を破られ同点に追いつかれた。延長戦に持ち込まれた末に敗戦、3連覇を阻止されたのが痛い思い出ですね」
この甲子園での柴田、尾崎の3度にわたる対決は、オールドファンに今も語り継がれている。