1936(昭和11)年、競馬法が改正されると、翌1937(昭和12)年、他の倶楽部は、その年の前半に相次いで姿を消し、日本競馬会へと吸収されていった。しかし、日本レース倶楽部だけは10月まで解散がずれ込んだ。
そして、この時のあいまいな資産処理の仕方が敗戦後、根岸競馬場の行方をめぐって再燃することになるが、これについては、号を追って紹介していくことにしたい。
話は戻り、当時、日本レース倶楽部の理事長だったアイザックスは、1936年12月、新発足の日本競馬会理事の一人に選任された。同理事会ただ一人の外国人で、彼が日本競馬会にいかに重きをなしていたかがわかる。
また、日本競馬会に所属する形となった根岸の横浜競馬場の場長は、理事アイザックスが兼務し、旧日本レース倶楽部会員らは、他の旧クラブと同様、新たに設立された横浜競馬振興会の会員となり、同振興会の理事にはアイザックスのほか、旧クラブ理事らが就任した。こうして、わが国の洋式競馬の育成、発展に最大の功績と栄誉を担った日本レース倶楽部は姿を消したのだった。
一方、軍拡を進めていた国政は、1937年秋から各競馬場で、開催各日の1競走を「馬事国防献金競走」として施行することを決定する。これを受け、日本競馬会は、その売上金から政府納付金を除いた残りを陸軍の軍馬費用として献金することになった。このレースは競馬が中止される1943(昭和18)年秋まで続き、献金総額は832万円にまでのぼった。
話は前後するが、このころ、日本は東条英機内閣成立の下、1941(昭和16)年12月8日、ついに太平洋戦争突入を迎える。こうした昭和10年代の戦雲拡大のもとでも、横浜をはじめ全国11の競馬場では春秋2回のレースが続けられ、大いに盛り上がった。
※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬