田中の事務所にはその支持基盤となる佐藤派田中系議員のみならず、他派の議員も多々出入りをしていた。もとより田中自身も票読みに余念がなかったが、一方で「田中の合わせ鏡」とまでいわれた側近中の側近の二階堂進(後に幹事長、副総裁)が中心になり、『国会便覧』を見ながら田中支持は○、福田支持は×、いまだ態度決めずに△印を付けては、田中に“情勢報告”をしていたものだった。また、田中事務所に出入りする議員たちの間では、「アレは間違いなくこっち」「いや、福田のところにも顔を出しているらしい」などと、カンカンガクガクの“論争”も展開されていたのだった。
中には福田派議員にもかかわらず、わざわざ目白の田中邸まで“挨拶”に来る議員もいた。「私は福田派です。今回は福田に投票させてもらうことになります」と“了承”を求めに来るのである。他派にもいかに田中に親近感を持っていた議員が多かったかの証左だが、先の議員などには田中はこう返した。「君の場合は分かっている。友情は友情として、君は福田さんに投票しなさい」と。田中は死力を尽くして戦いながらも、何でもかんでも囲い込むという姿勢ではなく、こうしたケジメもまた忘れなかった。
こうしたことは、この総裁選で一部にあった「田中は湯水のようにカネを使った」ということが、必ずしも当たっていなかったことにも通じた。田中、福田合わせて「百億円戦争」などとも喧伝されたが、これはいかにもオーバーであった。総裁選の後、田中派のあるベテラン議員は言っていた。
「一説では、田中が使ったカネは、自らの資金に佐藤派が幹事長を握っていたこともあって、この幹事長決裁で自由になる党の国会対策費などを加えて20億円くらいではとも言われた。総裁選を含めて選挙というものは出所不明のカネが動くものだが、時に、田中は現職の通産大臣、危ないカネなどは使える立場にはなかった」
一方、「越山会の女王」にして田中の金庫番であった秘書にして愛人の佐藤昭子もまた、その著『私の「田中角栄」日記』の中で、要約すると次のように記している。
「総裁選と言えど権力闘争に違いないわけだから、戦争のための軍資金はいる。しかし、私には分からぬ部分もありますが、巷間言われたようなものの十分の一以下だったと見ています。大体、田中事務所の金庫は厚い扉の旧式のもので、どんなに詰め込んだところで10億円なんて入りません。田中も“百億円戦争”については、『百億円なんて膨大なカネ、一体、積み上げたらどのくらいになるんだ。そんなもの置く場所があるかい。お前が一番よく知っているじゃないか』と、苦笑していたくらいでした」
もっとも、この佐藤女史、“内助の功”と言うべきか、なかなかのチエ者ぶりも発揮した。田中派担当記者のこんな証言が残っている。
「議員が田中事務所にやって来ると、その車の運転手に1万円のチップを出していた。だから、議員が時間を持て余しているときなど、運転手は『どうです。田中先生の事務所でも行ってみますか』と議員に言う。議員としても、田中に会えば何がしかの“恩恵”が待っているから『よし、行こう』となる。こうして、とりわけ態度未決定の議員との接触を図ったのです」
こうした中で、ついに田中は7月5日と決まった自民党臨時党大会での総裁選へ向けて、立候補声明を出した。昭和47年6月21日である。以下、少々長いが、その要約である。
「戦後27年、国内また転換と変革のときを迎えております。私たちは戦後の荒波から立ち上がるために、精一杯働いてきました。そして、短時間のうちに今日の繁栄を確保することができました。汗を流して築き上げた実績は、日本人自らの努力の集積であり、誇り得るものであります。
また、経済は量的に十分拡大しましたが、しかし、質的な充実はこれからであります。成長の陰に公害、物価高、過密と過疎、教育の混迷、世代間の断絶など、解決する問題が数多く現れてまいりました。
70年代の政治には、強力なリーダーシップが求められています。政治家は国民にテーマを示して具体的な目標を明らかにし、日限を切って政策の実現に全力を傾けるべきであります。結果についての責任は、私が負うつもりであります。政治責任の明らかな“決断と実行”の政治こそ、私の目指すところであります。
私は日本中の家庭に笑い声があふれ、老いも若きも明日に希望をつなぐことができる社会の建設に、全力を傾けてまいります――」
国政に歩を進めて25年、「たたき上げ」田中の天下取りへの幕がいよいよ切って落とされた。(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。