大のプロレスファンとして知られる滝沢は、たびたび会場での観戦が目撃されていたが、一度だけリングで試合を行ったことがある。2000年3月11日に横浜アリーナで開催された『第2回メモリアル力道山』で、ゲスト出演とともに、1998年4月4日に引退をしたあのアントニオ猪木と3分間エキシビションマッチを行うことが発表されたのだ。これは主催をした力道山OB会の中にジャニーズ事務所と繋がりが深い人物がいたことが発端で実現に至ったもの。
当時プロレスファンの間では、猪木の試合がまた見られるとあって話題になり、一方、滝沢のファンは心配の悲鳴を上げていた。当時はまだバレーボールでもジャニーズのパフォーマンスが終わるとファンがドッと帰ってしまう時代。プロレスファンからは滝沢で客寄せしても猪木戦が終わったら帰ってしまうのではないか?という危惧が叫ばれていた。滝沢はそんな流れを察したのか、滝沢は「今回は僕の大好きなプロレスを最初から最後までみんなにも観て楽しんでもらいたい。僕も試合が終わったら最後まで観ますので、最後まで一緒に楽しみましょう」というコメントを発表し、ファンに理解を求めた。すると、滝沢の登場にアレルギーを持っていたプロレスファンも「タッキーよく言ってくれた」「タッキーは本当のプロレスファンだ」と滝沢を支持する声が次々にあがり、実際、猪木戦の後も滝沢はリングサイドで観戦したため、席を立ったファンはほとんどいなかった。
ジャニーズ内でも気配りに長けていると言われている滝沢だが、当時はまだ17歳で、次世代を担うアイドルとして絶頂期。滝沢は大仁田厚が旗揚げしたインディー団体FMWのファンであり、電流爆破マッチのマニアとしても知られている。この大会には新日本プロレスをはじめ複数の団体から選手が出場したオールスター戦だったことから、かつてFMWに所属していたターザン後藤がリングサイドの滝沢を襲撃。滝沢のファンからは悲鳴があがっていたが、当の滝沢は大喜びだった。
そして、凄かったのが猪木との試合である。エキシビションマッチということで、猪木はTシャツ、滝沢はジャージ姿で登場し、レフェリーは藤原喜明(組長)が務めたのだが、いきなり猪木が張り手を見せると、アリキックを2連発から馬乗りになって鉄拳制裁の体勢へ。猪木の現役時代と変わらぬ表情にプロレスファンは大猪木コールを送り、滝沢のファンは攻撃を受ける滝沢を見て悲鳴をあげたり、涙を流すファンもいた。滝沢はパンチで反撃すると猪木のTシャツを破り、猪木は自らTシャツを脱いで、現役時代と変わらぬ肉体を披露し、場内はどよめく。最後は手四つの力比べを滝沢が制したところから、猪木にアリキックを叩き込み、エルボードロップを放ち、カバーに入ると組長が高速3カウントを入れて滝沢の勝利。3カウントを奪われた直後も猪木は天龍源一郎戦のように滝沢へ攻撃を与えようとしていた。試合時間は4分1秒。試合があまりにもスイングし、エキサイトしたため、予定時間を1分以上超えたのだ。
この日は全10試合が行われたのだが、メインイベントで、当時敵対していた橋本真也(故人)と小川直也がタッグを組み、天龍&ビックバン・ジョーンズという異色カードが組まれ、小川と天龍が初遭遇するなど注目を集めていたものの、会場入りの際、小川の弟分だった村上和成(一成)が橋本を襲撃。橋本が流血したまま入場したため、試合は消化不良に終わり、終わってみればプロレスファンの間では「きょうのベストバウトは猪木対タッキー」という声が大半を占めた。引退した猪木と、アイドルの滝沢の試合がこの興行を食ってしまったのである。
のちに滝沢は日本テレビ系『アナザースカイ』に出演した際、「プロレスと芸能界は似ている」と発言。試合はこの日が最初で最後だったが、武藤敬司時代の全日本プロレスなど、プロレス会場には顔を出している。滝沢にとって、プロレス界の名プロデューサーでもあった猪木と若いときに一戦を交えたのは財産なのは間違いない。今後のプロデューサー活動において、この経験と子供の頃から根づいているプロレス脳が生かされることだろう。
取材・文・写真 / どら増田