その田中が炯眼だったのは、陣笠代議士にして自民党政治を動かしているのが、高級官僚出身者のグループであることを見抜いたことにあった。その中心にいたのが外務省出身の吉田茂、その右大臣、左大臣格だった大蔵省出身の池田勇人、鉄道省(のちの運輸省)出身の佐藤栄作であった。そうした優秀な官僚出身者のグループは「吉田学校」と言われ、田中はそこにもぐり込むことに成功した。
池田が政権を取ると、そこでは「大物」へのスプリング・ボードである大蔵大臣ポストを得、そのあと佐藤に政権が移ると蔵相留任、間もなく党を掌握し、天下取りには不可欠とされる自民党幹事長ポストへと昇り詰めたのである。その裏では、佐藤派の「代貸」としてひたすら汗をかいたことが、ついには天下をたぐり寄せることにつながったと言ってよかった。
その佐藤は、昭和39(1964)年11月、池田がガンを煩い、再起不能の判断のもとに内閣総辞職、後継に佐藤を指名したことで首相の座に就いた。佐藤は、第1次内閣では官房長官を除き、他の閣僚を留任させた形でスタートさせた。事実上、政権を譲ってくれた池田の顔を立てた布陣であった。田中もまた、池田内閣での蔵相をそのまま引き継いだ。
佐藤が一方で、内閣の屋台骨たる蔵相ポストに、あえて田中を留任させたのは、田中が佐藤派の「代貸」として、派閥の“台所”、すなわち資金の面倒を一切担っていたことが一つ、もう一つは池田内閣の蔵相として経済、財政運営に力量を見せつけたことがあった。
田中が佐藤内閣の蔵相となった頃、経済において国際収支は好調だったが、国内は不況、株式相場も昭和38年以降の低迷を引きずっていた。そのさなかに、時に証券業界の三役クラスだった山一證券が倒産危機に陥るという事態が発生した。
「山一」が倒産となれば国民生活、景気に計り知れない影響が出ることが予測された。大蔵省もこれを深刻に受け止めた。と同時に、田中の危機の裁き方いかんは、蔵相としての力量の真贋が問われる一方、発足間もない佐藤内閣自体の命運も左右しかねない正念場ということでもあった。
結果、田中は最善の策にたどりつくまで、自らの銀行など経済界の人脈を駆使、その裏で「次善の策」「三善の策」を模索しながら、最終的にはしぶる日本銀行を一喝、「伝家の宝刀」の大バクチで日銀法二十五条による「山一」への282億円にのぼる「日銀特融」を飲ませたのであった。
現在の金額にすれば、じつに3000億円ほどとなり、一蔵相がこれだけのカネを日銀から引き出したことに、佐藤首相はあの大きな目玉をさらに丸くして驚き、同時に自民党内も田中蔵相の力量に改めて一目置くことになった。この決着で株式市場にも活気が戻り、国民の動揺もまた鎮まっていった。
★「たった30秒」の予算復活折衝
この頃、自民党内における田中について言えば、佐藤内閣より前の池田内閣蔵相時代から積極財政論者であり、予算でも大盤振る舞いが常だった。それまでの蔵相とはひと味違い、政敵だろうが、ライバルだろうが大いにサービス、距離感を払拭していたのが特筆に値した。
例えば、昭和38年度予算の各省大臣との復活折衝では、ソリの合わなかった大物の河野一郎建設大臣(現・防衛大臣の河野太郎の祖父)に対する、電光石火「30秒の復活折衝」が話題になった。
あれこれ理屈をつけて要求を渋るのが大蔵大臣の相場だが、河野をして「若手の党人派としては、アイツは相当のやり手だ」と感心させた。腕組みをしてしばし、「30秒」の決着は次のようなものだった。
「道路110億円、治山治水45億円、下水道10億円。えーと、シメて165億。いいですッ、付けようじゃねぇですか」
目いっぱい予算を付けてくれる大臣ゆえ、他の閣僚からの「人気」も上々ということだった。池田内閣に引き続き、「日銀特融」の断行で改めてその力量を知らしめ、蔵相としていささか得意気になった田中は、この頃、愛人にして「二人三脚」で政治活動を共にしてきた秘書の佐藤昭子に、こう言ったという。
「どうやら光が見えてきたな」
二つの内閣で蔵相ポストを踏み、天下取りへの手応えを実感したということだった。
佐藤はこうした田中の力量を買い、政権基盤を固めるため、田中に党を預ける幹事長ポストを与えた。
昭和40年6月、第1次改造内閣と同時の党人事で、この幹事長ポストは田中の長い政治生活の中で、最も輝いていた時代の始まりであった。
(本文中敬称略/この項つづく)
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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。