検波器、ノッチ、ターミナル、スパイダーコイルと部品の1つ1つを辿っていく。それぞれがどういう意味を持つのかわからない。それでも理論は棚上げにして、部品を厳密に模倣して作ることだけは出来そうだという目途が立つのに3カ月を費やした。
金属工業の仕事の手は休めずに進めた研究だ。徳次は試作を続けながら、ラジオの重要性や将来性を考え、次第に憑かれたようになっていった。
こうしてラジオに予備知識を全く持たなかった徳次達が4月、ついに小型鉱石ラジオセットの組み立てに成功した。商品としての国産ラジオ受信機第1号である。直ちにラジオ製作の準備に入った。
大阪では6月に、社団法人大阪放送局が大阪三越の仮設放送所から最初の電波を流した。この電波は徳次達のセットにも素晴らしく明瞭に入ってきた。工場中の従業員が集まり、小さなレシーバーを奪い合うようにして初電波を聞いた。皆、興奮して歓声を上げた。
初放送とともに世間のラジオへの関心は一気に高まった。徳次は機を待っていた。今がその時だった。すでに準備は万端、手配は整っていた。セット製作を本格化し、即座に市販を開始した。
製品名はシャープ・ラジオ。最初は単に鉱石受信機と名付けたが、しばらく経ってからシャープペンシルに因んで命名した。値段は1セット3円50銭、アメリカ製の半額以下だった。
これが大当たりで、恐ろしいくらいの売れ行きである。続いて7円50銭を最高に4種類を製作し、同時に部品を作って販売した。このラジオ製作に当たり、量産するために材料や部品の手配を早々に行い、コンベアシステムを採用した。ラジオの組み立てに必要な工程を52手と分析、52人を並んで座らせ、1人1工程の流れ作業を行う。うまくいくかどうか心配だったが、実行してみると、それまで1台に要した2時間が、流れ作業では50分で済んだ。