1888(明治21)年、秋季の根岸競馬で我が国初めてのパリミューチェル方式による馬券が1枚1ドルで売り出されたのだ。パリミューチェル方式とは、賭け金から一定率の手数料を差し引いた残額を、的中者に比例分配するやり方で、現在、一般的に「勝馬投票」といえばこの方式を指す。フランスで1891年に法律上認められてから、米国、英国でも合法化され、日本でも1923(大正12)年に法制化され、今日に至っている。
根岸競馬で日本レースクラブが、初めてこの方式で馬券を発売するについては、長い間、理事たちが考え悩んだ末だと「五十年史」では記しているが、このおかげでクラブ財政は大変潤ったようだ。
クラブはその資金で馬場、スタンドなど、根岸競馬場の整備を進めていく。1905(明治38)年には、環状の馬場に囲まれたおわん状の土地を公園や、運動場として独自で買収している。そして翌年にはゴルフ場がオープンする。このゴルフ場は、神戸の六甲(1901=明治34=年オープン)、横尾(1904=明治37=年オープン)に次ぐ日本で3番目にできたコースで、日本レースクラブ・ゴルフィング・アソシエーションがクラブ名であった。
これと合わせ、日本レーシングクラブは1906(明治39)年1月、社団法人レース倶楽部となっている。治外法権的な運営を脱し、日本の法則に従った団体に衣がえしたものであった。
※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬