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【幻の兵器】すでに陳腐化していた戦闘術を元に作られた四式軽戦車(ケヌ)に悲劇

 太平洋戦争時の日本陸軍は、非力だが安価に量産可能な九五式軽戦車を主に生産しており、戦力的にはともかく数の上では軽戦車が「主力」だった。とはいえ九五式軽戦車の装甲は米軍の重機関銃にさえ対抗できず、主武装も米軍の装甲車に対抗するのがやっとの37ミリ砲であり、陸軍当局も既に戦力価値がほとんど無くなっているのは痛感していた。そのため、日本陸軍は1944年に九五式軽戦車の火力向上を主目的とした車両を試作しているが、そのひとつが四式軽戦車である。

 まず、九五式軽戦車に九七式中戦車の主砲(九七式五七粍戦車砲)を装備した三式軽戦車を試作しているが、砲塔内は狭くて窮屈だったため試作のみに終わった。そこで、こんどは主砲だけではなく、九七式中戦車の砲塔を装備した四式軽戦車を製作したのである。この四式軽戦車では、九五式軽戦車に大きな九七式中戦車の砲塔を乗せるため、砲塔リングの直径を1000ミリから1350ミリに拡大している他、砲塔の換装に伴って車体の各部分にも手を加えている。

 だが砲塔の搭載方法はかなり強引と言え、車体前面から見て左右の両側面はわずかずつはみ出しているほか(車体側面の膨らみは一種の増加装甲なので、本体の外側に付属しているような構造となっている)、砲塔前面がはみ出したため車体前面にある操縦手ハッチの開閉にも問題が生じたため、車体を改造して操縦手ハッチを開閉可能にした。

 とはいえ、小振りで軽い車体に大きな砲塔を搭載したため、車体が不安定になった可能性もある。また、たとえ九七式中戦車の砲塔を装備して少々攻撃力を強化したとしても、九五式軽戦車の改造型である限り、敵の装甲車両には対抗できないのも明らかで、もちろん陸軍もそのことは十分に理解していた。事実、参謀本部の教育総監部が編纂した『戦車用法』において、軽戦車連隊は「敵空挺部隊の攻撃または砲兵等の挺身奇襲に任ぜしむ」とされており、少なくとも四式軽戦車を「敵機甲戦力との対決」に投入する予定はなかったと考えても問題はないだろう。

 では、日本陸軍が想定したような戦闘において、四式軽戦車は有効な戦力となりえたのか、そもそも日本陸軍が想定していたような戦闘が発生しえたのかということとなると、現代に生きる我々の視点からはいささか疑問といわざるをえないかもしれない。まず『戦車用法』に登場する「軽戦車連隊」で、日本陸軍は軽戦車のみを集成した軽戦車連隊を編成したことはないものの、結果的に「軽戦車ばかりを装備した戦車連隊」はいくつか存在していた。そのため、部隊名称としては存在しなかったが、軍隊内では「軽戦車連隊」として区別して陣地攻撃能力、特に対戦車砲を撃破する能力が劣る軽戦車を支援するため、榴弾砲を装備した四式軽戦車を配備する考えを持っていたのではないか。

 第二次世界大戦前には、大口径の榴弾砲を装備した戦車が敵陣の対戦車砲を撃破し、対戦車砲を装備した主力戦車の前進を助けるという戦術理論が開発されていた。実際、九五式軽戦車の三七粍砲はもちろん、榴弾の威力では、九七式中戦車改の四七粍砲より五七粍砲が上回っていたから、支援戦車としては一定の能力を期待できただろう。また、日本軍は米軍の対戦車ロケット(バズーカ砲)を非常に恐れており、先の『戦車用法』から四式軽戦車の目的は米空挺部隊に配属された対戦車ロケット班の撃破とする説もある。

 また敵砲兵への挺身奇襲だが、これはノモンハン戦時における戦車第四連隊の夜襲に範を取ったものと思われるし、迂回奇襲を好んだ日本陸軍にとっては極めて正統的な戦術といえる。しかし、米軍の航空支援能力はノモンハン戦時のソ連軍と比較にならないほど高く、また日本軍の迂回奇襲に手を焼いたことから警戒陣地の構築も入念に行われるため、残念ながら成功する可能性は極めて小さかっただろうと推定される。

 敵空挺部隊への攻撃についても同様で、対戦車ロケットのほかにM3A1対戦車砲や75ミリ無反動砲を備え、その気になれば英軍の空挺戦車まで投入可能だった敵空挺部隊に対し、四式軽戦車がどの程度の戦力を発揮しえたのかとなると、これまた残念ながら少々悲観的にならざるをえない。そのうえ、当時の日本軍は連合軍の空挺部隊と交戦した経験が乏しく、不正規戦闘を主任務とする軽装備部隊を相手にしているのみだ。

 いずれにしても、四式軽戦車は「軽戦車連隊」の中核となる兵器といえ、単に余剰兵器の再利用と片づけられない側面を持っているだろう。この点については、今後の研究を行ううえで重要なポイントとなるかもしれない。ただし、四式軽戦車を生み出す動機となった『戦車用法』における「軽戦車連隊」の戦術が、実戦ではどの程度まで有効だったかとなると、残念ながらかなり疑問とせざるをえないだろう。というのも、日本軍が参考にしたであろう戦闘例が、当時の情況においては既に陳腐化していたと思われるのだ。

 戦時中には「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」という標語があったが、先人達の工夫と努力には驚くべきものがあり、調査するたびに心から敬意を表したいと感じる。しかし、工夫ではなんともならないところで勝敗が決してしまうというのが、近代における総力戦の冷酷な現実と言わざるをえないのだ。 (隔週日曜日に掲載)

■データ 四式軽戦車(ケヌ)
重量:自重7.7t 全備重量8.4t
乗員:3名
寸法:全長4.30m、全幅2.70m、全高2.48m
動力:空冷直列6気筒ディ−ゼル120馬力
装甲:車体前面・側面12mm、後面8mm、砲塔全面25mm
武装:97式57mm戦車砲1 7.62mm機銃2

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