1935(昭和10)年、新競馬場への移転に伴い、八王子競馬を主催する「多摩八王子競馬会」は「多摩八王子競馬倶楽部」へと改称。さらに、1938(昭和13)年、開催権は「東京府馬匹畜産組合連合会」に移管されることとなった。
そして、日中戦争まっただなかの39(昭和14)年、「軍馬資源保護法」の施行により、多くの地方競馬場が閉場していったなかでも、八王子競馬は存続していた。ただ、従来の競走は「鍛錬馬競走」に改められた。
鍛錬馬競走とは、出走する農耕馬から軍事候補馬を選定し、戦地で使用するというもの。また、戦時中の競馬は馬事の知識普及、宣伝が目的…いわゆる観る競走だっただけに、観衆は集まらなかった。
44(昭和19)年、太平洋戦争の戦局の悪化とともに開催は減少し、ついに八王子競馬は中止に追い込まれる。しかし、45(昭和20)年の終戦に伴い、再び開催されるようになった。
46(昭和21)年、地方競馬法が公布されると、終戦直後の動乱に乗じ、地主や馬主、競馬関係者の間で不正に行われていた各地のヤミ競馬は排除されていく。それに代わって、競馬は主催者が馬匹連合会や馬匹組合が運営する「馬連競馬」へと移行していった。
このころ、誕生したのが「フォーカス馬券」である。戦後間もなく八王子競馬場で発売されたそれとは、出走馬を1枠から6枠の6つの枠に分け、1、2着馬の枠番を着順通りに当てるというもの。そう、今でいう「枠番単勝式」である。当時としては斬新なこの新馬券は、すぐさまファンに浸透する。
八王子競馬場は「多摩八王子競馬」として、46(昭和21)年10月、戦後初の開催が行われた。そして、47(昭和22)年には4開催(24日間)が行われ、入場人員12万2743人、売得金1億9254万円を記録した。この売上高は日本一で、「フォーカス馬券」がいかに人気があったのかが、よく分かる。
※参考文献(大井競馬の歩み/悲運の多摩八王子競馬/八王子の歴史と文化)