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「時代」を彩った男と女・あの人は今 元プロ野球選手・淡口憲治さん

 70年代から80年代の巨人で主に“代打の切り札”として活躍した淡口憲治。打席で腰を小さく振る打法がトレードマークで、当時全国の小学生たちがお尻を振りながら淡口のモノマネをしたものだった。また、打球の速さと鋭さから長嶋茂雄にその打法を『コンコルド打法』とも命名され、王貞治より速いバットスウィングを誇った。

 淡口は1952年4月5日生まれ、兵庫県西宮市出身。三田学園高校で通算27本塁打を放ち、プロからも注目を浴びた。法政大学に進学が決まっていたものの、当時の前川八郎スカウトが必死に口説いて、70年ドラフト3位でジャイアンツに入団した。
 淡口は当時の川上哲治監督にも一目ぼれされ実力を買われ、ドラフト1位2位の選手を差し置いて、一年目のオープン戦から一軍に大抜擢された。
 「その後、数年は一軍と二軍を行き来するような成績だったが、多摩川での二軍生活が本当に苦しくて嫌だ言ってました。それで奮起して一軍で出場機会があるときには勝負強さを発揮するようになってきたのでしょう。それと、淡口は絶賛されるスウィングとは反面、変化球に対応できない難点がありました。これは、体が早く開いてしまうからで、それを克服するためにフォームを改造したのが、あの“腰振り”なのです。構えた段階で予め腰を内側に入れておくために、打席に入るとお尻を振っているように見える、コレが当時の子供達からもウケましてね」(当時のスポーツ紙担当記者)
 75年には規定打席不足ながら打率.293の成績を残す活躍をした。翌年、日本ハムから張本勲が移籍し外野のレギュラー争いに敗れたため、この頃から代打の起用が多くなったが長嶋巨人のV1で淡口のモノマネが子供たちの間に流行したものだった。83年には打率3割を超える活躍をしたが、駒田徳広ら若手が力をつけ、打席に立つ機会も少なくなってしまった。85年オフに近鉄バッファローズにトレードで移籍。移籍1年目には115試合に出場して打率.297、外野手レギュラーもつかみ活躍した。89年の対ジャイアンツとの日本シリーズでは第二戦で桑田真澄から同点タイムリーを打つなどし、このシリーズを最後に19年のプロ生活にピリオドを打った。通産成績は1076安打、118本塁打だった。

 引退後はまず90年から05年までジャイアンツで打撃コーチ、二軍監督を務め、新人時代の松井秀喜を主力打者に育てるなどした。その後06年から日本ハムで打撃コーチを務め、08年には東京ヤクルトスワローズ二軍打撃コーチ、09年からは同一軍コーチを務めている。左打者育成には定評があり稲葉篤紀を開眼させるなどした。
 「とにかく、曲がったことが嫌いで、将来設計もしっかりするタイプ。以前、雑誌のエッセイで淡口と小学校の同級生だった中島らもさんが当時の思い出を綴っていたことがありました。野球のルールを全く知らない中島さんが学校で無理矢理、野球をさせられ隠し球でアウトになったということを聞いた淡口は相手に猛抗議をして中島さんの悔しさを晴らしてあげたらしいです。現役時代にも広島戦で達川光男に蹴られて応戦姿勢を見せたところ、淡口だけ退場処分になり、監督らとベンチから猛抗議を続けてました。また、新人時代からしっかりと人生設計を考え、ついたあだなは“年金”でした。考え通りにしっかりと野球で今も生計を立てているところは素晴らしいですね」(前出記者)
 現在58歳。自身の“定年”まで野球指導で生計を立て、老後の人生設計もしっかりしているところだろう。

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